[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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708: 2022/09/03(土)07:01 ID:HwBvERXo0(12/21) AAS
江戸初期までの石を使った庭は、中国の道教や神仙思想、あるいはこれに仏教の教えを
交え、宗教的・哲学的な理念を潜ませた庭である。
しかし、江戸時代も進んでどこでも庭を作るようになると、庭造りは様式化し、一切の
思想性を失う。それまでの庭は、僧と、僧が使役する特別な職人たちが作っていた。
僧は室町時代には石立僧と呼ばれていた。それを手伝う労務者は山水河原者と呼ばれ、
石立僧の補助者から庭造りの主役になっていく。
江戸時代に入ると、庭は徐々に普通の植木職人たちが作るようになる。
職人たち向けの庭造りのノウハウ本が出版され、誰でも庭造りが出来るようになった。
池をひょうたんの形にして「ひょうたん池」だと言ったり、ナマズの形にして「ナマズ池」
だと言ったりするようになるのは江戸時代も後半になってからである。
石を観賞するについても、石そのものの美でなく、蝦蟇に似ているとか亀に似ているとか、
烏帽子に似ているとかを喜ぶ。実際に蟾石(ひきいし)という名を付けられて庭の名物と
なっていたりする。まことに低俗な庭が作られるようになった。
古い名作と呼ばれる庭園にはこのような趣味は取り入れられていないのが普通である。
江戸時代、大名屋敷の中に庭園が作られたが、様式はほとんど共通していた。
池泉回遊式庭園である。庭の中心に広い池を作り、その周辺にいくつか築山を設ける。
池の周囲や築山を巡る苑路を設けて、歩くに連れて次々に展開する景色を楽しむという
趣向である。
苑路に沿って用意されているのは、古来和歌などに詠まれてきた名勝の縮景である。
例を挙げれば丹後の宮津・琵琶湖の唐崎の松・吉野山・三保の松原・松島など。
名勝というのではないが、東海道の小夜の中山・中山道の木曾の山道、尾花に覆われた
武蔵野の道など、古くから風情があるとされる土地の風景を再現したものもあった。
築山の山道を登るとそこは両側に檜や杉の生えた木曽路であり、道を下ると雑木林の
中にまばらにススキの生えた一帯がある。
そこの東屋から武蔵野の月を眺めるといった趣向である。
参考に六義園を紹介したブログを見てみよう。
外部リンク:gurutabi.gnavi.co.jp
六義園は、六義園八十八境といって、池の周囲の苑路に紀州和歌浦を中心にした88の
景色が組み込まれていた。現在はそのうち32の景色が残っているという。
たしかに見事な庭園だが、大名の庭はどこも同じようなものであった。
それは当然だろう。明治になったときに、東京市の面積の半分は庭園だったという。
大名も旗本も、さらに金のある商人も寺社も庭を作った。茶屋やそば屋も空き地が
あればちょっとした庭を作った。
さらに江戸の周囲には庭木を育てる植木畑が広がっていた。
駒込などは庭師の村であり、庭師はみな広大な植木畑を営んでいた。
農民たちが庭木を栽培するようになり、そのうちに庭師として剪定や庭造りをする
ようになったのである。こんな村は千駄ヶ谷や渋谷、目黒、中野などあちこちにあった。
東京市の半分は大袈裟でも、三分の一ぐらいは庭園だったかも知れない。
大量に庭造りをし管理しているうちに、庭師の技術は普遍化し、みな同じような庭に
なってしまった。失敗もないが突出したものもない。
様式として完成したともいえるし、通俗化して形だけのものになったとも言える。
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