[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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710: 2022/09/03(土)07:06 ID:HwBvERXo0(14/21) AAS
上記から分かるように、大名庭園というのは大名やその家族の遊覧のための施設で
あった。大名やその家族は(お付きの者たちも含めて)、窮屈な生活をしているので、
時に自然の風景の中で陽光や風にあたり気晴らしをする必要がある。
庭園は、基本的に「お殿様の御休息のための場所」なのであった。
郊外の下屋敷に自然を模した広大な庭園を営み、外を出歩くのと同じ解放感を得ようと
したのである。だから苑路の周囲には日本中の名所に擬した風景(の縮景)を配し、
何度回っても退屈しないよう、四季折々の景色を楽しめるようになっていた。
たとえば冬に雪が降れば、雪景色を楽しめる一画があった。
ただ、たくさんの風景を詰め込んだ結果、大名庭園の景観はチマチマとした込み入った
ものになった。
江戸初期までの庭が、多少なりとも禅宗の庭の影響を受けて簡素で高尚な境地を目指し
たのに対し、大名庭園は石と植え込み以外に様々な植栽を施し、その他竹垣や東屋、
さらには水車などの工作物を配してゴチャゴチャしたものになった。
庭木の剪定も、究極まで変形させた盆栽のような形のものばかりになった。
江戸初期までの庭は、樹木を変形させるということはなかった。
庭木も園芸種は植えなかった。
大名庭園はこれとは逆に、庭木も草花も園芸植物のオンパレードであった。
例えばツツジである。ツツジは元禄の頃に大流行し、その後江戸期を通じて人気は衰え
なかった。参勤交代などを通じて日本中に広まり、地方で新種が開発されてまた江戸に
戻ってきたりもしたのである。
百人町の鉄砲同心たちが霧島ツツジを改良して内職として栽培し、大久保名物になって
いたのは有名である。江戸の庶民たちは狂気したようにツツジの盆栽や地植えをした。
ツツジは花が一度に咲き、派手である。
ツツジを大量に植えることにより、日本庭園は一変した。
築山をツツジで覆い、春の開花時期には一面赤や白やピンクの築山が現出した。
他に園芸種の花樹としては桜や梅、カエデ、椿などがある。
桜は花弁が盛り上がり、色が派手な八重桜が普及した。
八重桜は自然のままの桜と対置され、里桜と呼ばれた。
江戸人にとって桜は山桜と里桜の二種しかなく、ソメイヨシノなども山桜であった。
梅は自然にはあり得ない紅梅、あるいは黄梅なども植えられた。
黄梅は元禄の頃、中国からもたらされたものである。
猩々カエデは春の新芽のときから葉が真っ赤になり、途中ふつうの緑になるが、秋の
紅葉は自然では考えられないほど濃い赤色になる。
椿は古来から親しまれてきた花樹であるが、江戸時代になるまではヤブツバキなどの
野生種ばかりだった。昔から公家が椿を好み、秀吉も椿が好きであった。
伏見城は椿だらけで、椿の城と言われたという。
もともと伏見は椿の名所で、桃山丘陵に野生種がたくさん生えていた。
温暖な伏見には公家の別業(別荘)が多く、その庭に椿が植えられたのである。
外部リンク[htm]:shigeru.kommy.com
秀吉はさらに、茶花(茶室に生ける花)として椿を好んだ。
長く伏見にいたためか、二代将軍秀忠の椿好きは有名である。
大名に椿を献上させ、江戸城内のあちこちに椿を植え、花畑には大量に植えたという。
そのため幕臣の他、大名にも広がり、画題としても取り上げられることが多くなった。
加賀前田家や熊本細川家では、代々の殿様が椿を好んで、国許の加賀や熊本では椿の
園芸種も盛んに開発された。
石川県では今でも椿の園芸農家が多い。加賀椿はとにかく上品である。
一方、肥後つばきは椿の中の椿といわれ、熱狂的な愛好家も多い。
熊本城にも大量に植えられている。城内の竹の丸跡の隣に椿園がある。
細川家の藩邸のあった文京区目白台の肥後細川庭園は、肥後椿の名所である。
江戸時代に開発された椿の園芸種は200種を超えるという。
なお、武家は椿を嫌ったという話は嘘である。明治以降に作られた与太話だろう。
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