[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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715: 2022/09/03(土)07:11 ID:HwBvERXo0(19/21) AAS
※築城といっても二段階ある。まずは城郭全体の構造を決め(これを縄張り、という)、
土塁や石垣を築く基礎工事。この土木工事を「普請」と言った。
次に整地された敷地や石垣の上に天守や御殿、櫓などを作る工事がある。
これを「作事」という。
普請と作事の違いは、現在の土木と建築の違いである。
築城名人といわれる藤堂高虎、加藤清正などは「普請」の名人であった。
たとえば名古屋城天守閣の石垣は加藤清正が築いたものである。
これに対し、作事の面で築城名人といわれた小堀遠州がいる。
名古屋城天守閣や江戸城天守閣の建物部分は遠州の設計・監督による。
二条城は普請が藤堂高虎、作事が小堀遠州である。
遠州は二条城に総塗籠の五重の天守閣を築いた。
秀吉の聚楽第を凌ぐことを目指した壮麗な城であった。
しかし天守閣は落雷で焼失し、本丸も火事で焼けてしまった。
今は二の丸御殿が残るのみである。
(現在本丸御殿とされているのは桂宮家の御殿だった建物である。明治27年に本丸の
跡地に移築されたものである。当時は二条城が天皇家の離宮とされ、天皇が京都に還御
されたときの宿所とされていた)。

生駒家の客臣となった八兵衛は生駒家の普請奉行や郡奉行として活躍した。
溜め池を掘り、古い溜め池を修築した。満濃池は周囲まで泥に埋まってほとんど機能
していなかったが、泥土を掘り上げ、その土で堤防を嵩上げして復活させた。
讃岐は「旱天五日に及べば水湿の潤いなく霖雨二日に及べば洪水の恐れあり」と言わ
れる土地である。五日雨が降らねば大地はひび割れ、雨が二日続けば洪水になるという
のである。溜め池だけでなく、洪水対策も必要である。
洪水といえば、香東川の東側の流ればかりはどうにもならなかった。
八兵衛は香東川の工事はどうしても避けて通れないと判断するに至った。
工事は寛永の8年(1631)頃に始まり、寛永14年(1637)頃に完成したという。

川床の一本化により、従来氾濫を起こして農民を悩ませていた東側の流れは消滅し、
後には10キロほどの川床が残った。数年後にはこの川床が美田に変わる。
しかし寛永17年(1640)、生駒家には御家騒動が起き、出羽で一万石に改易となる。
改易は、御家騒動云々より、生駒家が豊臣大名であることが一番の原因だろう。
(八兵衛は改易の一年前に藤堂家に戻った)。
その後に入ったのが頼重で、以後明治まで高松松平家がこの地を治めることになる。
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