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【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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716
: 2022/09/03(土)07:13
ID:HwBvERXo0(20/21)
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716: [sage] 2022/09/03(土) 07:13:03.82 ID:HwBvERXo0 栗林荘(以下、県立公園になる前の庭園を栗林荘と呼ぶことにする)は、最初はこの地の 豪族であった佐藤氏が作庭した庭園であった。※ 佐藤志摩介(道益)なる豪族は、はじめ香西佳清に仕え、続いて仙石久秀に仕えた。 続いて生駒氏が領主になると生駒氏に仕えた。 この佐藤志摩介が隠居して道益と号し、隠居場の裏に庭園を作ったのである。 この庭が栗林荘に発展していくことになる。 ※高松松平家ではこの庭園のある地を「御林」、庭園を「御庭」と呼んでいた。 しかし栗林公園になる以前のこの庭園は、すべて栗林荘と呼ぶことにしたい。 道益が亡くなった後、庭はおそらく放置されていたのだろう。 その後、香東川の東側の流れの付け替え工事がなされ、同益の庭は大きく様子を変じた。 川の流れに沿った傾斜地に作った庭園の下に、広い川床が現れたのである。 当時の川であるから、川床には大きな石がゴロゴロしていた。 この川床の土地に、生駒氏が広い庭を作ることになる。 想像するに、栗林園のある土地はもともと川床で水が溜まりやすく、背後は紫雲山などの 山なので水も出やすい。大雨が降ったときに大量に水が溜まり、今とほとんど変わらない ような見事な景観が現出したのではないか。 これだけ見事な景色なら、水を溜めたままにした方がよいと誰もが思ったのである。 そこで池が作られた。 生駒氏の作庭(改修)工事は、寛永8年(1631)からだという。 香東川の河川付け替え工事が始まった年と同じだが、こんなはずはない。 栗林荘は、香東川の東の流れを堰止めて現れた河床に作られた庭園であるから、河川工事と 造園の工事が一緒くたにされたと思われる。 栗林荘になった場所が、この当時どのように利用されていたかを示す資料は存在しない。 だから想像するしかないのであるが、常識的に河川工事が終わってから造園がなされたと 考えるべきだろう。作庭開始について1637年とする説があるが、それによるべきである。 では造園の工事は誰が指揮したかというと、やはり西嶋八兵衛以外に考えられない。 八兵衛の主人である藤堂高虎は築城の名人とされ、生涯20を越える城を作ったとされる。 大洲城、宇和島城、今治城、尼崎城、江戸城、伊賀上野城などである。 江戸城では「縄張り」を任された。縄張りとは城郭の基本設計のことである。 御殿や櫓などの各種建物、通路、堀などの位置や大きさを決め、実際に縄を張る。 家康は大名たちを一同に集めることのできる広大な座敷を備えた大きな本丸を望んだ。 本丸には大天守閣を築こうとしたという。 しかし高虎は、まだ豊臣家があり戦が起きぬとも限らないのだから、戦争に使える城を 築くべきだと主張し、普通の大きさの本丸と天守閣になったという。 高虎は日光東照宮の造営も行ったという(家光が建て替える前の建築である)。 これらのすべてに西嶋八兵衛がかかわっているのである。 城には前園・中園・後園の三つの庭園が必要なことは上述した。 築城のときに庭の基本的な部分は作ってしまうのである。 庭園の植栽はただの上物(うわもの)である。庭園造りの九割は土木工事である。 大石を運びこんであちこちに石を積む。池には分厚く粘土を敷く。 そこに水を導入したり排水したりするのだから大土木工事になる。 後園の周囲には深田を掘る。泥沼のような水田にすれば戦のときに堀の代わりにもなる のである。築城時に工事して当たり前である。 さらに八兵衛は二条城の設計築城もしており、二条城二の丸庭園は名庭として知られる。※ これらを考えると、生駒氏時代の栗林荘は八兵衛が作庭したと考えるのが妥当だろう。 植え込みや石組みなどの細かなところはともかく、基本的な構造は八兵衛の設計である。 ただし、作庭を始めて数年後には御家騒動となり、八兵衛は讃岐を離れる。 庭園は未完成だったはずである。 しかし、高松松平氏の記録は、今の栗林園の地に生駒氏の庭園があったとしている。 頼重が高松に入ったのが寛永19年(1642)5月28日で、7月には庭園を視察している。 大まかな部分は出来上がっていたのだろう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/716
栗林荘以下県立公園になる前の庭園を栗林荘と呼ぶことにするは最初はこの地の 豪族であった佐藤氏が作庭した庭園であった 佐藤志摩介道益なる豪族ははじめ香西佳清に仕え続いて仙石久秀に仕えた 続いて生駒氏が領主になると生駒氏に仕えた この佐藤志摩介が隠居して道益と号し隠居場の裏に庭園を作ったのである この庭が栗林荘に発展していくことになる 高松松平家ではこの庭園のある地を御林庭園を御庭と呼んでいた しかし栗林公園になる以前のこの庭園はすべて栗林荘と呼ぶことにしたい 道益が亡くなった後庭はおそらく放置されていたのだろう その後香東川の東側の流れの付け替え工事がなされ同益の庭は大きく様子を変じた 川の流れに沿った傾斜地に作った庭園の下に広い川床が現れたのである 当時の川であるから川床には大きな石がゴロゴロしていた この川床の土地に生駒氏が広い庭を作ることになる 想像するに栗林園のある土地はもともと川床で水が溜まりやすく背後は紫雲山などの 山なので水も出やすい大雨が降ったときに大量に水が溜まり今とほとんど変わらない ような見事な景観が現出したのではないか これだけ見事な景色なら水を溜めたままにした方がよいと誰もが思ったのである そこで池が作られた 生駒氏の作庭改修工事は寛永年からだという 香東川の河川付け替え工事が始まった年と同じだがこんなはずはない 栗林荘は香東川の東の流れを堰止めて現れた河床に作られた庭園であるから河川工事と 造園の工事が一緒くたにされたと思われる 栗林荘になった場所がこの当時どのように利用されていたかを示す資料は存在しない だから想像するしかないのであるが常識的に河川工事が終わってから造園がなされたと 考えるべきだろう作庭開始について年とする説があるがそれによるべきである では造園の工事は誰が指揮したかというとやはり西嶋八兵衛以外に考えられない 八兵衛の主人である藤堂高虎は築城の名人とされ生涯を越える城を作ったとされる 大洲城宇和島城今治城尼崎城江戸城伊賀上野城などである 江戸城では縄張りを任された縄張りとは城郭の基本設計のことである 御殿や櫓などの各種建物通路堀などの位置や大きさを決め実際に縄を張る 家康は大名たちを一同に集めることのできる広大な座敷を備えた大きな本丸を望んだ 本丸には大天守閣を築こうとしたという しかし高虎はまだ豊臣家があり戦が起きぬとも限らないのだから戦争に使える城を 築くべきだと主張し普通の大きさの本丸と天守閣になったという 高虎は日光東照宮の造営も行ったという家光が建て替える前の建築である これらのすべてに西嶋八兵衛がかかわっているのである 城には前園中園後園の三つの庭園が必要なことは上述した 築城のときに庭の基本的な部分は作ってしまうのである 庭園の植栽はただの上物うわものである庭園造りの九割は土木工事である 大石を運びこんであちこちに石を積む池には分厚く粘土を敷く そこに水を導入したり排水したりするのだから大土木工事になる 後園の周囲には深田を掘る泥沼のような水田にすれば戦のときに堀の代わりにもなる のである築城時に工事して当たり前である さらに八兵衛は二条城の設計築城もしており二条城二の丸庭園は名庭として知られる これらを考えると生駒氏時代の栗林荘は八兵衛が作庭したと考えるのが妥当だろう 植え込みや石組みなどの細かなところはともかく基本的な構造は八兵衛の設計である ただし作庭を始めて数年後には御家騒動となり八兵衛は讃岐を離れる 庭園は未完成だったはずである しかし高松松平氏の記録は今の栗林園の地に生駒氏の庭園があったとしている 頼重が高松に入ったのが寛永年月日で7月には庭園を視察している 大まかな部分は出来上がっていたのだろう
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