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【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/
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720: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2022/09/23(金) 22:42:49.53 ID:iiAqLOC20 御成りというと、自分の気に入りの大名の屋敷に行って歓待され、ご馳走を食べ、 庭などを見物して帰ってくるような遊興的な行事と想像されがちである。 実はそうではなく、将軍と家臣との学問芸能の交流の場という性格があったようである。 学問は儒学、芸能は能であった。 まず能に関してだが、綱吉は将軍就任以前から能に耽溺していた。 能を見るだけでなく、自分でも頻りに舞ったことでも知られている 江戸城では頻繁に人を集め、自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも舞を強要した。 何人もの能役者を幕臣に取り立てて身近に置き、能の相手をさせていた。 当時は大名にとっても能を舞えることは必須の素養であり、どこの大名でも能役者を抱え、 身辺に置いて能の稽古をした。 例えば四代将軍家宣・家継の側用人間部詮房は、甲府德川家の家臣の子であるが、幼くして 猿楽師・喜多七太夫の弟子となった。七太夫に付いて家宣(当時は綱豊)の傍らに侍るうち に、利発さを認められ、小姓に抜擢された。これが出世の糸口になったのである。 綱吉は玄人(くろうと)の能役者の舞にもたびたび口を出した。 本来のしきたりにならって演じると、綱吉がそれを変えるように命ずる。 綱吉の命令に背いた役者が追放されることもあった。 喜多(きた)流では、大夫とその息子が一時追放されてしまい、流派存続の危機にさらされた ほどである。また綱吉は、当時上演が途絶えてしまった古い能を観ることを好んだ。 この将軍の好みにあわせ、能役者たちは室町時代の曲目を復活させたりした。 綱吉が相手では誤魔化しは効かなかったはずで、その苦労はたいへんなものだっただろう。 次は儒学である。 御成りは、主として儒学の研鑽が目的であった。 綱吉は、大名や旗本などを相手に、元禄3年(1690)から6年にかけて四書を講じた。 また既述のように、上野にあった林家の家塾を湯島に移し、湯島聖堂と昌平黌を建てた。 代々林家の当主を大学頭(だいがくのかみ)に任じて昌平黌を主宰させることにより、 朱子学を国教化させた。 綱吉は儒学に傾倒し、儒学を政治指針とし、儒学の根本理念たる「仁」による政治を 推し進めた。政権後半期には生類憐れみの令を発し、社会に「仁心」を浸透させようと した。(生類憐れみの令という法令があるわけではないのはご存知のとおり)。 綱吉は儒学に傾倒する余り、キリスト教の宣教者(福音を伝える人)のように、儒学を 世に広めて人々が仁心を持つようにしなければならないと思い定めていた。 元禄7年(1694)、綱吉は江戸城の本丸に役人たちを集め、「生類憐れみのことは専ら 慈悲の心にある」と説き、「仁心こそを持ち、人々の志が素直になるように心掛けよ」 と指示した。生類憐れみの令は実施の面で異常な形を採るようになったが、仁の理念に よる政治という点では一貫していたのである。 綱吉にとって、御成りとは儒学を公布公宣するための重要な手段であった。 下にあるように、綱吉が御成りの屋敷で「仁徳」の書を配ったりしたのは、綱吉にとって は真剣な布教活動だったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/720
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