[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
上下前次1-新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
722: 2022/09/23(金)22:44 ID:iiAqLOC20(5/14) AAS
小石川行楽園への桂昌院の御成りの話に戻る。
御成りがあったのは元禄15年。光圀公が亡くなった翌々年である。
(光圀の没年は元禄13年(1701)である)。
光圀公の思い出話でもしていて、ちょっと出かけてみようかという気になったのか、
それとも上記のように、女中たちが行きたがったのかも知れない。
ただし、行くにしても婆さんであるから足が弱い。
もし転びでもさせたらたいへんである。
そこで安全な苑路を作るため、邪魔になる岩や大石が撤去された。※
苑路は、お付きの女中が婆さんを左右から支えるだけの幅は必要である。
つまり、三人並んで歩ける広さでないといけない。
園内のあちこちに、撤去した岩や石を積み上げた山ができたという。
さらに、道を拡げただけでなく、平坦にしたはずである。
上り坂になっている道は削り、下り坂は埋めて平らにした。
築山や地盤まで、切り土・盛土といった工事がなされただろう。
部分的に石畳なども敷設されたと思われる。
この写真に近いような苑路が作られた可能性はある。
外部リンク:iyashi.midb.jp
最低限、道は砂利で固められ、その上に山砂を敷いて突き固めたと思われる。
※「後楽園紀事」は以下のように記している。
おしむべきとは元禄年中、桂昌院大夫人(常憲公の御実母)、この御園へ御入御ありける時、
大石奇石大夫人御歩行の為危うしとて、大概取りはらはる。
数月を経て、その石さくら馬場、銅蔵の辺りそのほかも、よりもよりに取りのけて、
所々の隅ずみへ積重ねたる山のごとし、この時園中の景変し侍りぬ。
桂昌院のための園内道普請は、小石川後楽園にとって破壊以外の何者でもなく、
大厄災というべきである。
唯一救いとなるのが、桂昌院が高齢で、園内を隈無く見物するようなことは出来
なかっただろうということである。
当時の後楽園の規模は現在の四倍以上あった。
その中で老婆がどこを見るかといえば、対象は限られてくるだろう。
おそらく東門から入って大泉水の周囲を見物しただけではないか。
大堰川の方も眺めはしたろうが、西側は崖側になり起伏に富むので、老婆が歩む
には適していない。転ぶのを用心して歩かせなかったのではないか。
というようなわけで、破壊は一部にとどまったと思われる。
ただし、大泉水は庭園の中核である。
その石組みが崩されて撤去され、池畔の石が取り払われてしまったのは惜しい。
おそらく金地院方丈庭園がいくつも並んだような石組みだったはずである。
小滝もいくつかあっただろう。
それらが破壊されたのは文化史上の一大損失というべきである。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 34 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.007s