[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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723: 2022/09/23(金)22:45 ID:iiAqLOC20(6/14) AAS
[ 頼豊による小石川後楽園改修 ]
頼豊が行楽園を改修した時期については、具体的なことは分からない。
どの資料も「享保年間」としか言わない。
頼豊の息子である宗堯(むねたか)が水戸家の四代目藩主となったのは享保3年(1718)
である。その前から水戸家の養子に入っていたが、この年に先代の綱条が亡くなり、
家督を継いだのである。
先代も隠居したのではなく亡くなった。そして息子が藩主になった。
だからもはや誰も遠慮する者が無く、やりたい放題のことをやり始めたのである。
したがって、庭園の改修は享保3年以降であることは間違いない。
息子の宗堯は上記のごとく早世した。享保15年(1730)である。
宗堯が藩主であったのは12年間ということになる。
行楽園改修の時期は、この12年間のうちのいずれかという他はない。
頼豊は参勤交代もしなければならないから、江戸にいたのは6年。
庭の改修などは一気にやるものでもなく、あっちを直しこっちをいじり、というような
やり方だろうから、息子が死ぬまでずっとやっていたのかも知れない。
ところで、光圀による小石川後楽園の完成は、上記のように寛文12年(1672)頃と推測
される。頼豊による改修が、息子の宗堯が藩主になってすぐの享保3年(1718)から
始まったと仮定しても、その間には半世紀近い歳月が流れているわけである。
もちろん、光圀はその後隠居したとはいえ元禄13年(1701)まで生きている。
光圀が生きていた間は、たとえ水戸に隠棲していても後楽園の管理は十分になされて
いただろう。元禄15年の桂昌院の御成りによって庭園は随分と姿を変えたとはいえ、
その時に園内の整備も十分になされたはずである。
その翌年には地震があり、庭園の滝が崩れたりした。
滝は元には戻していないようだが、それでも大名の庭園が放置されるということは
考えられない。
だから頼豊が園内の木を700本も切ったというのは、鬱蒼と茂りすぎていたとか、
見晴らしが悪くなっていたとかいう理由ではない。
単に庭園を自分の好みに造り替えたかっただけのことである。
頼豊の好みは、典型的な江戸時代中葉の大名庭園であった。
大きな池泉を中心にして、その周りの苑路を巡り、さまざまな景を楽しむという池泉
回遊式庭園である。さらに、池泉の周辺に小山を築き、高いところからの展望を楽しむ
とか、築山の樹林で池泉の景観を一部遮り、進んでいくと急に視界が開けるといった
趣向の庭園※、すなわち築山池泉回遊式庭園である。
※このような作庭技法を「見え隠れの法」という。
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