[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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725: 2022/09/23(金)22:59 ID:iiAqLOC20(8/14) AAS
園内の景色についてはこのブログがよい。写真もうまい。
(ブログのアドレスを書くと書き込めなくなる。以下の標題をコピペして検索していただきたい)。

小石川後楽園【訪問編】  まだ知らぬ、日本を訪ねて

江戸時代も中期以降になると、庭園作成者は築山池泉回遊式庭園に加え、その近くに
田園あるいは里山の風景を作り始めた。
田園風景といえば、まずは「水田」である。田圃の周囲の湿地帯には菖蒲やアヤメが咲く。
斜面には一面に彼岸花が咲く。
里山の麓には梅林があり、柿の木や杏・桃の林がある。
そういった、日本人にとって懐かしい風景が庭園の景として作られるようになった。
小石川後楽園にも水田があり、梅林があり、菖蒲田がある。
なお、後楽園の水田については光圀の養子綱條の正室が今出川家の姫君であったので、
これに農民の苦労を教えるために、光圀が作らせたといわれる。
しかし、農民の苦労云々は庭園に水田を作る際には必ず理由とされることである。
さらに、この話の典拠は鵜飼信興「後楽紀事」である。
後楽紀事が著されたのは元文元年(1736)であり、水戸藩主は5代宗翰の時代である。
光圀が後楽園を作ってから60年以上も経っており、内容の信憑性には疑問がある。
この「後楽紀事」については後に触れる。

さて、以上が現今の小石川後楽園の姿である。
このうち、光圀が作庭した部分がどれだけ残っているかといえば、おそらく庭園の輪郭と
いくつかの構造物だけだろう。
水戸藩初代の頼房が徳大寺左兵衛に作らせた奇岩大石を用いた庭は、桂昌院の御成りの
ときに大きく姿を損じた。さらに鬱蒼とした大木や石組み・滝などによって形成されていた
深山か仙境のような雰囲気は、頼豊の改築によって一掃された。
小石川後楽園は、明るく平坦な、どこの大名庭園とも変わらない庭に一変した。
大泉水が琵琶湖であり、その傍らに生える一本松が唐崎の松だという。
大堰川に渡月橋、さらに竜田川に紅葉の林だという。
現代人は、光圀公がこういったものを作って悦に入っていたと思うのだろうか。
細長い池の横に苑路があり、ここは木曽路だよとか、手前の石は寝覚ノ床だよ、などと
光圀公がやっていたと想像するのは自由である。
だがその想像は、おそらく間違っている。
小石川後楽園の景色(「景」という)を琵琶湖や京都などに見立てるのは、頼豊がやった
ことである。頼豊は、園内の景色を名所に見立てるために随分と手を入れ、新たに景を
作り出したりもしている。
もともと池の周囲は、石組みによって仕立てられていた。
これは私が想像して言うのではない。時代的に、当時の庭園というのはそういうもので
あった。最低でも旧芝離宮庭園や清澄庭園のような、石で池の輪郭を作る庭園だった。
石の大きさや数は、おそらくこれらの庭園をはるかに凌駕していただろう。
そこはさすがに御三家の屋敷の庭であり、徳大寺左兵衛の作った庭なのである。
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