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【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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732
: 2022/10/15(土)19:28
ID:Hjkxb0g/0(1/18)
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732: [sage] 2022/10/15(土) 19:28:19.98 ID:Hjkxb0g/0 [ 小石川後楽園-総括 ] 思いがけず庭園に関する叙述が長くなってしまった。 内容が錯綜したが、ここで追求したテーマは、松平頼豊が小石川後楽園をどれだけ改変した かということであった。逆にいうと、頼房公が作庭し光圀公が完成させた小石川後楽園は、 どれだけその姿を留めているのか、である。 結論から言えば、庭園の土台である護岸石組みや滝石組みなどの庭園の基本構造部分は ほとんどが破壊されたと見るべきである。 この時代の庭は、京都に金地院方丈庭園などが残されているし、東京でも旧芝離宮恩賜庭園 など、池の護岸石組みをそのままにした庭園が残っている。 しかし、小石川後楽園では景観の要になる石はほぼ撤去されている。 上記のように滝や流路も残骸というべきものが残されているにすぎない。 後楽紀事という本がある。小石川後楽園の歴史を叙述した本で、後楽園に関する最も重要な 文献とされている。著者は鵜飼信興である。(著書はいくつかあり、額賀信興、或いは 源信興と名乗ることもある)。水戸藩士で、彰考館の吏員である。 後楽紀事は元文元年(1736)に出版された。五代宗翰(むねもと)の時代である。 美代姫の生んだ鶴千代が一歳で藩主となり、この当時は八歳になっていた。 後楽紀事の内容は、初代頼房に始まり、光圀、綱條、宗堯と四代に亘る小石川後楽園との かかわりを明かにしている。 この本によると、大泉水を琵琶湖に見立て、園内の景を京都への旅として各地の名勝に なぞらえたのは頼房ということになっている。頼房は作庭の最終責任者であるから当然 名前は出るが、作庭者は徳大寺左兵衛であり、家光も作庭者の一人と言ってよい。 この三人が、ここは木曽路だよとか寝覚めの床だよとか、ここは竹生島、ここは竜田川、 などとやったというのである。 つまり、小石川後楽園の当初の庭園は縮景庭園であったとする。 そして庭園を受け継いだ光圀は、庭園の景観をほとんどそのままにした。 光圀は多くの中国風のお堂や橋などを付け加えはしたが、石組みなどには一切手を触れ なかった。そのことも明記してある。 その後の景観の変遷については、元禄15年(1703)、五代将軍綱吉の生母桂昌院の御成りの 際に奇岩怪石が取り除かれたことと、享保年間に四代水戸藩主宗尭の父、讃岐高松藩主 松平頼豊が見晴らしをよくするために700本の樹木を伐採したことが記されている。 頼豊は、実際は大石や奇岩も多数撤去してしまった。 また大泉水のほとりの護岸石組みを崩してただの石積みにしてしまった。 さらに、後楽園の崖地には奇石を重ね、切り立った山肌のようにしていたのだが、それらは 全て取り払ってしまった。庭園作成前から生えていた古木も全部切ってしまった。 西湖周辺、龍田川、棕櫚山、河原書院前庭等の景なども一変したといわれる。 こうしたことは書いていない。 高松の金毘羅大権現を祀り、石清尾八幡を勧請したなど、讃岐風のものを後楽園に持ち 込んだことはしっかり書いてある。 要するに、改造の結果庭園の眺めがどうなったかということは具体的には書かれていない。 景観が一変した、人々は残念がった、というようなことが書かれているだけである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/732
小石川後楽園総括 思いがけず庭園に関する叙述が長くなってしまった 内容が錯綜したがここで追求したテーマは松平頼豊が小石川後楽園をどれだけ改変した かということであった逆にいうと頼房公が作庭し光公が完成させた小石川後楽園は どれだけその姿を留めているのかである 結論から言えば庭園の土台である護岸石組みや滝石組みなどの庭園の基本構造部分は ほとんどが破壊されたと見るべきである この時代の庭は京都に金地院方丈庭園などが残されているし東京でも旧芝離宮恩賜庭園 など池の護岸石組みをそのままにした庭園が残っている しかし小石川後楽園では景観の要になる石はほぼ撤去されている 上記のように滝や流路も残骸というべきものが残されているにすぎない 後楽紀事という本がある小石川後楽園の歴史を叙述した本で後楽園に関する最も重要な 文献とされている著者は鵜飼信興である著書はいくつかあり額賀信興或いは 源信興と名乗ることもある水戸藩士で彰考館の吏員である 後楽紀事は元文元年に出版された五代宗翰むねもとの時代である 美代姫の生んだ鶴千代が一歳で藩主となりこの当時は八歳になっていた 後楽紀事の内容は初代頼房に始まり光綱宗と四代に亘る小石川後楽園との かかわりを明かにしている この本によると大泉水を琵琶湖に見立て園内の景を京都への旅として各地の名勝に なぞらえたのは頼房ということになっている頼房は作庭の最終責任者であるから当然 名前は出るが作庭者は徳大寺左兵衛であり家光も作庭者の一人と言ってよい この三人がここは木曽路だよとか寝覚めの床だよとかここは竹生島ここは竜田川 などとやったというのである つまり小石川後楽園の当初の庭園は縮景庭園であったとする そして庭園を受け継いだ光は庭園の景観をほとんどそのままにした 光は多くの中国風のお堂や橋などを付け加えはしたが石組みなどには一切手を触れ なかったそのことも明記してある その後の景観の変遷については元禄年五代将軍綱吉の生母桂昌院の御成りの 際に奇岩怪石が取り除かれたことと享保年間に四代水戸藩主宗尭の父讃岐高松藩主 松平頼豊が見晴らしをよくするために本の樹木を伐採したことが記されている 頼豊は実際は大石や奇岩も多数撤去してしまった また大泉水のほとりの護岸石組みを崩してただの石積みにしてしまった さらに後楽園の崖地には奇石を重ね切り立った山肌のようにしていたのだがそれらは 全て取り払ってしまった庭園作成前から生えていた古木も全部切ってしまった 西湖周辺龍田川山河原書院前庭等の景なども一変したといわれる こうしたことは書いていない 高松の金毘羅大権現をり石清尾八幡を勧請したなど讃岐風のものを後楽園に持ち 込んだことはしっかり書いてある 要するに改造の結果庭園の眺めがどうなったかということは具体的には書かれていない 景観が一変した人は残念がったというようなことが書かれているだけである
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