[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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733: 2022/10/15(土)19:31 ID:Hjkxb0g/0(2/18) AAS
後楽紀事が出版されたのは上記のように元文元年(1736)であり、頼豊による庭園改造
から6年は過ぎている。
頼豊の息子である水戸德川家第四代藩主宗堯は享保15年(1730)に死んだ。
息子が死んだのだから、頼豊は水戸家の藩邸に出入りして藩主のような振る舞いをするなど
出来なくなったはずである。後楽園の改修は息子の宗堯が生きていた間のことだろう。
だから頼豊による改修は、どんなに遅くとも享保15年には終わったのである。
頼豊は息子の死の5年後、享保20年(1735)に死亡している。
そして、後楽紀事は頼豊が死んだ翌年に出版されているのである。
著者の鵜飼信興は彰考館の吏員だから、ほぼ毎日内庭にある彰考館に通っていた。
いつから通っていたかは分からないが、本を出版するほどの史館員なのであるから、3年や
5年ではないであろう。頼豊による改造について逐一見届けたかも知れないし、少なくとも
改造した庭はその目で見てはずである。

結局、後楽紀事によればもともとの小石川後楽園の様子というのは
1.当初、頼房の作った庭の基本構造は今の庭と変わらない。京都への道中の風景や琵琶湖、
京都各地の名所名勝を写した縮景庭園であり、今と同じ回遊式の庭園であった。
2.光圀による改修も、中国風の趣きを付け加えただけで、当初の庭の構造は変えていない。
以上を前提に、
3.桂昌院の御成りのときに多くの奇岩怪石が取り払われた。
4.さらに頼豊の改修のときに、見晴らしを悪くしていた園内の木を700本切った。
以上、1.2.3.4.によると、結局、光圀が完成した庭園から大石や奇岩を取り除き、木を
切って見晴らしをよくしたのが今の庭園であるというのである。

実に不思議な書である。
「園中の絶勝」は「大いに変」じたはずであるのに、今ある景観の説明ばかりする。
元の景観の説明はほとんど無く、だから「大いに変」じたといってもどう変わったのかは
分からない。結局、石が取り除かれ、大木が切られた以外、庭園の景は変わっていないよう
にしか読めないのである。
おそらく、この後楽紀事という本が出版されたのは頼豊が死んだ翌年であるというところ
から謎は解けるのではないかと思われる。
しかし、結論を急がず、頼房の作った後園の姿を明かにするところから始めよう。

頼房の作った後園は、池の周囲と崖地に大量の石を組み上げ、さらに本物と見まごう滝を
作り、深山幽谷の風情を持つ庭であった。
作庭に家光が参加したことではじめて出来たことも多い。
滝水に神田上水の水を使うことを許可したのは家光であった。
また、伊豆の御用山から巨岩を採取するのを許したのも家光である。
神田上水の水を無尽蔵に使えたため(流水を引き込んで園内を流した後は上水に戻すの
だから当たり前であるが)、滝の水量はたいへんなものであった。
(滝とはいわゆる音羽の滝のことである)※。
園内には轟音が響き、鮮烈な水流が園内を走った。
流れ落ちる滝水は池に流れ込み、満々と水を湛えた池は大湖のようであった。
泉水の中央付近にある中の島(蓬莱島)は、奇怪極まる形状をしていた。
ゴツゴツした巨岩怪石を積み上げ、その上に伽羅(きゃら)・柏槙(びゃくしん)などの
神木を植え、島の頂上部から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。
音羽の滝の頂上部分と中島の滝の水源を木の樋で裏側で連結させ、サイフォンの原理で
島の頂上からも水が出るようになっていたのである。
だから中の島の滝の高さは音羽の滝の高さとほぼ同じであった。
音羽の滝は10メートルほどあったというから、中島の石組みもそれと同じぐらいの高さが
あり、そこからさらに天に向かって木や木の枝がニョキニョキと突き出していたのである。
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