[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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736: 2022/10/15(土)19:35 ID:Hjkxb0g/0(5/18) AAS
[中の島(蓬莱島)について]
今の小石川後楽園では、誰も中の島(蓬莱島)には興味をもつまい。
大木の生えたただの小山のようになっているからである。
しかし、本来の中の島の石組みは10メートルほどの高さがあり、そこからさらに木が天に
伸びていた。奇怪な尖塔のような姿だったと思われる。
大きさも今の蓬莱島より一回り大きかった。
しかし、現状からして、それらの石組みは崩壊し撤去されたと見るほかはない。
石を高く組んだ構造であったため、地震で崩壊した可能性がある。
桂昌院の御成りの翌年(元禄16年)の地震は大きく、滝石組みや滝への給水設備が壊れた。
このときに蓬莱島の石組みも崩れたとされている。
後楽紀事も、「中の地震」で崩れたと明記している。
中の地震とは元禄16年の地震のことである。
一方、原因は地震ではなく、桂昌院の御成りのときに撤去されたのかも知れない。
御成りは地震の一年前であるからほぼ同時期である。
地震でいろいろ壊れたので、中の島の崩壊も地震が原因とされているが、御成りのときの
破壊と一緒くたにされている可能性も無いではない。
桂昌院は先端恐怖症というか、尖ったものやゴツゴツしたものに恐怖を覚える症状が
あった様子である。※
御成りにあたって奇岩怪石を取り除かせたというのも、道を歩きやするためだけでなく、
奇怪な形の岩や威圧感のある巨石などを怖がったためかも知れない。
桂昌院の御成りのときに撤去されたのは石や岩だけではない。尖ったものも撤去された。
例えば文昌堂(八卦堂)の屋根飾りである。
お堂や塔の屋根のてっぺんには相輪(そうりん)という金具が付けられるのが普通である。
金属の輪が幾重にも重なり、その先は剣のように尖っている。
文昌堂の屋根にも法輪が付けられており、しかも先端の剣型の部分が中国風で長かった。
これが駄目だということになった。
それで宝珠(ほうじゅ)という金色の丸い珠に取替えさせられたのである。
(そういえば水戸の八卦堂の屋根飾りも宝珠である)。
お堂の屋根飾りなど歩行の安全に全く関係がない。にもかかわらず法輪を宝珠に取り替えた
というのは、尖ったものを怖がる神経症的な症状があったとしか考えられない。
尖ったものを怖がる以外に、岩が人の顔に見えたり怪物に見えるような症状があったのかも
知れない。通行の邪魔にならなくても、奇怪な形の岩などは取りのけられたのではないか。
蓬莱島もその姿があまりに奇怪なため、桂昌院の気分を害するかも知れないということで
撤去された・・・、そう考えたら余りにも飛躍した想像になるであろうか。
※桂昌院だけでなく綱吉も神経過敏で、雷を怖がること尋常でなかった。
また綱吉の治世中に彗星が二度現れた(元禄2年と元禄12年)。一回目は14日間、二回目は
10日間見えていたという。その間、綱吉は精神の平衡を失った。自分の政(まつりごと)の
誤りを天が怒っているのではないかと脅え、家臣に相談したりしたという。
中の島の様子は『後楽紀事』に記述されている。
「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。(中略)島に入りて
かたはらにて見れば、ひむろ、きゃらぼく、びゃくしんやうのもの繁茂して、石の
ひまひまには岩かさなり、苔さへむして侍りければ、何の形とも分らず。」。
「ひむろ」とはサワラの一種である。ヒバのような木である。
「きゃらぼく」はイチイの変種である。幹が直立せず、横に広がる。
「びゃくしん」は桧(ひのき)の一種である。
どれも常緑針葉樹であり、枝打ちしなければ枝葉が猛烈に繁茂する。
古来日本では松や杉などの葉が枯れない木をめでる風習があった。
中の島には、中国風の常磐木を植えたのである。
ところで、この中の島の描写は、「島に入りてかたはらにて見れば」(島に入って
近くでみれば)とあるのだから、実際に舟で島に渡っての実見談であろう。
この部分は、鵜飼信興がその目で見たことを書いているのである。
そのときの島の様子は、「石のひまひまには岩かさなり、苔さへむして侍りければ」と
あるのだから、現在のように石が片付けられ木と草の生えた小山のような状態では
なかったようである。崩れた大石の間に岩が重なり、苔むしていたという。
そこに上記の常緑針葉樹が生えていた。島になっているので他の植物の浸食がなく、
植生が保たれていたのである。
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