[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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738: 2022/10/15(土)19:37 ID:Hjkxb0g/0(7/18) AAS
大徳寺瑞峯院の独座庭は近代作庭家の作品だが、波立つ海の中の蓬莱島をあらわしている。
外部リンク:serai.jp
入門用にこういう庭があってもよいだろう。
座禅をするための庭だと思えば砂紋などはどうでもよい。
この写真の何枚か下に妙心寺退蔵院「元信の庭」の写真。蓬莱島の石組みがある。
狩野元信は室町時代の絵師である。1476年生まれで、足利九代将軍義尚に仕えた。
(義尚は足利義政と日野富子の次男である。先に将軍後継と決まっていた義視と対立し、
応仁の乱のきっかけとなった将軍)。
日本画の代表的な流派である狩野派の始祖・狩野正信の長男で、狩野派の画風を完成させ、
室町時代から明治まで続く狩野派の基礎を作り上げた人物である。
元信は単なる絵師ではなく、妙心寺二十五世大休宗休に帰依し、禅を学んでいた。
このような関係から作庭を委ねられたらしい。
この庭は、元信が自分の山水画を実際の庭に仕立てたものだといわれる。
室町期の枯山水庭園には、水墨山水画の構図や表現手法を取り入れたものが少なくない。
例えば大徳寺・大仙院の庭などである。
山水画の名人が庭を仕立てたらどうなるか、妙心寺の僧たちは興味津々で作庭を見守った
はずである。
元信の庭ならやはりこのサイトの写真がいい。
外部リンク[php]:garden-guide.jp
庭を図解した白黒写真を見ると、一番左端に自然石の石橋がある。
橋があっても人間は仙境へは渡れないのであるが、人間世界とは違う世界だということを
示すために橋が置かれているのである。本来は橋など無い。
この橋の右手にいくつかの大石が並び、これが蓬莱連山である。
蓬莱山の手前に山々が並んでいるのである。蓬莱山は蓬莱連山の彼方に聳えている。
蓬莱山の右手は枯滝の石組みである。縦縞の岸壁を現す石が見事である。
枯滝の手前、大きな石が平たく並べられているのが亀島である。
海を挟んで亀島と向き合うように鶴首石が置かれているのが鶴島である。
まことに忠実に蓬莱神仙の世界を具体化した鶴亀蓬莱島枯山水庭園である。
ただし、鶴島はほぼ遺跡化してしまっている。
本来は最小でも亀島と同じ大きさがあったはずである。
ここでも大きな方丈を建てたために庭を削ることになり、鶴島は鶴首石と羽石が一個ある
だけである。手前のつくばい(手水)がもう一つの羽石なのではないかと言われている。
この写真で庭の構図が分かりにくいのは、写真の角度が悪いのである。
ほんとうは、写真右端中央あたりの礼拝石のあたりから撮らないといけない。
しかし、写真を撮るにも方丈の縁側から外には出てはならないらしい。
別のサイト
外部リンク[html]:www.taizoin.com
ここには元信の庭を正面から撮った写真が何枚かある。
改めて見て思うが、この庭は修行僧たちが座禅をするための庭であるような気がする。
座りやすそうな石が多いし、左右の石橋も実用であるように見える。
今は庭の背後に広葉常緑樹がたくさん植えられているが、実際に庭が座禅修行の場であった
ときに植えられていたのは松だと思う。
樹下に平たい大石がいくつも置かれ、樹木は少なく閑散としていたと思う。
ついでに、小石川後楽園とほぼ同時代の鶴亀蓬莱島池泉式庭園を一つあげておこう。
蓮華寺庭園である。
外部リンク[php]:garden-guide.jp
この庭が作られたのは1668年である。
一方光圀により小石川後楽園が完成されたと推定される時期は1667年。
時期は同時期といってよい。
純粋な鶴亀蓬莱島庭園であり、庭の木がかなり大きく、かつ繁茂している。
小さな庭園だが、雰囲気が当初の小石川後楽園と似ているかも知れない。
とくに内庭などはこんな感じだったのかと思う。
(ただし、内庭の池でもこの5倍はあるだろう)。
なお、小石川後楽園の内庭は書院庭園である。
書院のすぐ脇にある庭園を書院庭園という。
書院庭園で有名なものに銀閣寺(慈照寺)庭園がある。
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