[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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740: 2022/10/15(土)19:39 ID:Hjkxb0g/0(9/18) AAS
つぎに座観式庭園であること。座観式とは、一定の場所に座って眺める庭園を言う。
観賞式庭園ともいい、苑路を巡る回遊式庭園に対置されるものである。
まず、智積院庭園が座観式であるのはいうまでもない。
大書院の座敷から眺めるようになっている。
昔は書院も講堂もこんなに大きくはなく、池はこれほど間近ではなかったはずである。
書院から遠く廬山を仰ぐつもりで築山を眺めたのである。
では小石川後楽園はどうか。
残念ながら、小石川後楽園が座観式庭園であったなどという人は一人もいない。
作庭された当初から小石川後楽園の庭は回遊式であったということになっている。
それは、最も権威ある資料である鵜飼信興の書いた「後楽紀事」がそのように書いている
からである。この資料に基づき庭園研究家・重森三玲はその著書「後楽園史」において、
(徳大寺左兵衛は)低地を修景して園路を設け松原、馬場はじめ京都の大井川や清水など
古来の和歌の原点である京都付近の名勝を題材にした景色をとりいれ、多様な植栽を工夫
したといえる。こうした基本的な地割や意匠は既に完成しており、江戸初期に作られた、
いわゆる池泉回遊式の初期の大名庭園であり、その後の大名庭園作庭の範になったと考え
られる。」としている。
しかし、時代的にそれはあり得ないと思われる。
この時代の庭というのは、書院や茶屋などの定点箇所から庭を眺める座観式に決まっていた。
風景は蓬莱島に鶴島亀島を添え、他に景観を足すにしても滝石組み程度のものであった。
分かりやすく言うと、蓬莱神仙思想にもとづく仙境を作り出し、そこを周囲から眺めると
いう発想だったのである。勿論庭の周辺に松やモミジ(楓など)・椿などを植え、景観を
楽しむということはあっただろう。しかし、苑路を作って庭の景観の中を観賞して歩くなど
といった発想はまだなかったのである。
後楽紀事はあったとするのであるが、それは著者の想像であり、創作であると考える。
後楽紀事がいかに重要な文献であろうとも、著者は創設当時の庭園を見ていない。
鵜飼信興は後楽紀事を書いたのは、作庭から100年近く経ってからのことである。
後楽紀事に絶対の信を置くことは出来ないと思うのである。
さらに、回遊式庭園と縮景庭園は深く関係する。
縮景とは、名所名勝の景色を庭園の中に写し、あるいはそのように見立てたものである。
そのような多様な景色を作り出すために、重森三玲によれば「松原、馬場はじめ京都の
大井川や清水など古来の和歌の原点である京都付近の名勝を題材にした景色をとりいれ、
多様な植栽を工夫」することになるのである。
そしてそれらは苑路に沿って展開される。それらの景観は苑路に沿って用意され、苑路を
歩むごとに目の前に次々に現れてくるのである。
小石川後楽園は、作られた時にはこのような庭であったとするのが一般の理解なのである。
これに対してはもはや論評は不要であろう。十分に論じたつもりである。
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