[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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741: 2022/10/15(土)19:39 ID:Hjkxb0g/0(10/18) AAS
後楽園が座観式であったと言っても、一カ所だけから見る庭ではなかった。
茶屋がいくつかあり、そこで休めるようになっていた。
ここが厳密な座観式庭園である竜安寺方丈南庭などとは異なる点である。
茶屋はただの休憩所ではなく、観賞ポイントであった。
とするなら、鑑賞ポイントを巡って歩くのだから回遊式と言えるではないかとの批判も
あろう。たしかに、ここから先は、「回遊式」とは何かという言葉の意義をめぐっての
議論になりかねない。
まず、小石川後楽園にはどのような観賞ポイントがあったかを明かにしよう。
最初に挙げられるのは清水観音堂の舞台だろう。
舞台ができるまでは、千手観音を安置した観音堂があるだけだった。
しかしその時代から最重要の観賞ポイントであったと考える。
理由は、観音堂から下の景色は観音浄土からの眺めであり、庭園中最高の眺望だからで
ある。ただ休憩所のような建物はなかった。
それは、そこが観音浄土であるから、人間が座って茶を飲むような施設を設ける余地は
無かったというだけのことである。
それなら何故光圀は舞台を作ってそこで茶を喫したかということになるが、その時代には
懸け造りで舞台を作るのが流行ったのである。
例えば家光は慶安3年(1650)に長谷寺の舞台を寄進している。
何故舞台を作るのが流行ったかというと、舞台を観音浄土と捉えるようになったからである。
長谷寺の本尊は十一面観音であり、舞台はそれが観音浄土を現しているのである。
室生寺にも舞台があるが、本尊は如意輪観音であり、舞台が浄土であることは同じである。
山道を登った頂上よりも、崖の上に懸け造りで作った舞台の方がより浄土を実感させた
のであろう。時代の風潮というしかない。
その他、観賞ポイントとしては、久八屋(くはちや)のところにも茶屋はあった。
丸屋という茶屋もあった。
涵徳亭は、その元になる硝子御茶屋(びいどろおちゃや)というのが当初からあった。
(涵徳亭という名がつけられたのは享保年間である)。
硝子御茶屋は大泉水との間に築山をきずき、あえて大泉水が見えないようにしてあった。
大泉水が見えないということは大泉水側から見えないということである。
大泉水側から建物が見えると興醒めになるというような理由もあったのかも知れない。
(硝子御茶屋が何やら秘密めいた会合に用いられた施設であった可能性もある)。
とにかく、このように茶屋がいくつかあるということは、そこの間を移動するということで
あり、回遊式と言えるではないかという意見もあるだろう。
この点、私は回遊式というためには快適な苑路が必要であり、さらに苑路に沿って各地の
縮景が容易されていなければならないと考える。そして歩くことによって次々に景観が
変わることが必要であると考える。
当初の小石川後楽園の道は苑路と呼べるようなものではなかった。ただの通路である。
自然の凹凸がそのままにされ、曲がりくねり、さらに岩や大木の間を縫って歩く道である。
道も細く、移動のための小道にすぎなかった。
このような道を移動しながら景色を観賞する余裕はなかったし、つぎつぎと展開していく
景色も用意されてはいなかった。
座観式の観賞点がいくつかある庭というに過ぎなかったのである。
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