[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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742: 2022/10/15(土)19:49 ID:Hjkxb0g/0(11/18) AAS
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
その後、頼豊による改修のときに苑路が隅々まで整備された。
頼豊によって小石川後楽園は池泉式回遊庭園として完成されたのである。
同様の庭は他にもある。初期の岡山後楽園である。
池の周囲に苑路はなく、周囲の高台になったところや傾斜地に小道があった。
その道をたどって茶屋などに移動したのである。
岡山後楽園が回遊式といえる庭になったのは、三代継政(つぐまさ)が12年の歳月をかけて
園内中央に唯心山を築いてからのことである。
栗林園もそうだが、江戸時代初期には観賞ポイントがいくつかあっても、それを一日で回る
というようなことはなされていなかったと想像する。
つまり、回遊ということはなされていなかった。
一カ所だけでは厭きるので、今日はあそこに行こうとか、夏で暑いときはあそこの茶屋が
涼しくてよいとか、秋の紅葉はあそこから観賞しようとか、そうした利用の仕方だった
のではないか。
なお、座観式だからといっていっさい庭園内に入ることはできないわけではない。
その点は昔の方が融通が利いた。
座観式の典型である天竜寺の曹源池庭園などでも、滝石組みの近くまで行き、奥を
覗いたりはできたのである。今は池を挟んで講堂側からしか見ることはできないが、戦後
しばらくの間までは橋を渡ってあちら側に行くことができた。
滝石組みの中に入って鯉魚石まで間近で観賞することもできた。
近くで見なければあの滝石組みの凄さは分からないと言われていた。
しかし、かなり危険なことであった。昔は拝観者が怪我をしても寺の責任を問うような
ことはなかったので、寺も自由にさせていたのである。
智積院庭園も、築山の裏の方から池の縁を歩けるようにはなっている。
目立たないが、苑路(通路)のようなものが無いわけではない。
ただ一般客の立ち入りが禁止になっているだけである。
考えてみれば、庭園を管理する必要はあるのだから、人間が入れない庭などあるわけがない。
それなりに人が通行できるようにはなっているはずである。
座観式の庭は庭園の景を犠牲にしてまで道は作らないが、そうであっても植え込みの裏など
に小道があったとしても不思議ではない。
初期の岡山後楽園も栗林園もそのような小道がついていたし、茶屋などに行くにはそうした
道が利用されていた。木々の間を辿り、岩の隙間を縫うような道である。
小石川後楽園ももちろんそうであった。
これらの庭園は景観優先であり、人が移動することは二の次三の次だったのである。
そもそも中国の神仙思想にもとづき、人の入れない仙境に見立てて作庭されるのであるから、
それが当然である。深山幽谷の趣きのある庭に歩きやすい苑路などがついていたら、却って
そぐわないのである。
最後に、光圀は、得仁堂、文昌堂などを建て、そこを巡る苑路を作ったが、そこは庭園だと
思ってはいなかったはずである。光圀は内庭の方に彰考館の書院や書庫を建てたが、あちらも
当然ながら庭園の施設だとは思っていなかった。
どちらも庭園の隅の斜面になった土地を利用しただけのことである。
西湖の堤も作ったが、あれも人は通さなかったのではなかろうか)。
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