[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
744: 2022/10/15(土)19:51 ID:Hjkxb0g/0(13/18) AAS
では、小石川後楽園の中の島(蓬莱島)はどうか。
この点、元々の島の姿からすれば須弥山としか言いようがない。
須弥山とは、仏画などでは曼荼羅のような幾何学的な模様であらわされているが、機能を
含めて描くとあのようになるのであって、本来は笠が開かない松茸のような形をしている。
松茸よりもエリンギのような形といった方が分かりやすいかも知れない。
小石川後楽園の中の島の姿はアニメ映画のラピュタに出てくるような形状であった。
水面から五メートルほどの高さまでは大石が組み上げられ、そこからさらに尖塔のように
数メートルの高さの石が組まれていた。
その頂上付近から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。
須弥山では甘露の法雨という甘い水が降ってきてそこに住む者たちの喉を潤す。そのため
誰も何も食べないでも生きていけるのである。
この様子を現すためには本当は霧のような水が噴き出すのがよいのだが、当時はそんな
ことはできない。だから滝だったのである。
しかし風の強い日など、風に吹き散らされる滝水は甘露の雨のように見えただろう。
石の間に中国風の常緑樹が植えられ、それらが枝葉を拡げていた。
遠くから見ると下半分は巨石の塊であり、上半分は茂りに茂った常緑樹の塊であった。
常緑樹は大きく枝を拡げているため、上半分の方が大きく見え、キノコのようであった。
これを見て「みな人奇異の見物なりとて驚かざるものなし。」という有様だった。
そのことは上に書いた。

中の島(蓬莱島)だけでなく、亀島も鶴島も規格外に大きなものだったと思われる。
(念のため、亀島はかめじま、鶴島はつるじま、と濁って読むのが正しい)。
亀島の大きさは、亀頭石である徳大寺石の大きさからも想像がつく。
亀島と鶴島はセットであるから、鶴島も大きなものだったろう。
さらに、鶴首石や島に植えられた松は、堂々として重厚感に溢れたものであった。
庭園全体に伊豆の御用山から運ばれた石が無数に使われていた。
中国の廬山のような、岩山と渓谷からなる仙境の雰囲気を目指した庭だったのだろう。
植栽は太古の昔からの山林を利用し、なるべく大木も切らず庭園に利用したというところ
から考えても、今日の私たちが考える庭園とはまるで違うものだった。
以上から何が言いたいかというと、築造当初の小石川後楽園の庭は、江戸中期の大名庭園
とはまるで違う庭園だったということである。
大泉水を琵琶湖に見立て、その向こうに唐崎の松がある。もしそういうものだとしたら、
その手前の蓬莱島が高さ10メートルもある奇怪な形の島であるわけがい。
頼房が作った当初の庭は、大名庭園などとは次元の違う庭だったのである。
1-
あと 12 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.007s