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【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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745
: 2022/10/15(土)19:53
ID:Hjkxb0g/0(14/18)
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745: [sage] 2022/10/15(土) 19:53:44.76 ID:Hjkxb0g/0 そしてこの庭園を光圀はほとんど変えなかった。 後楽紀事にある。 「一木を伐り一石をうこかしたまふ事はなかりけるとこそ。明遺臣舜水に命ぜられて、 御園の名をえらばせられし時に、(中略)後楽園と名付けられて、御屋形より御園への 唐門にも右の三字を書して扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公上の 御経営なり。すべて威公上のあそばされたる御事を、少しなりともあらためたまはず。 されどことにより改めさせたまふこともありしかど、是はまたもとのごとくに成べき ことなり。一木なりとも枯たるは御本意なき御事とて、年々御植かへは有之候得ども、 大木を伐らせらるる事は、かってこれなかりけるとそ。松は別て御当家へいはれある ことなれば、一枝をも伐らせたまはざりけり。」。 光圀は受け継いだ庭の「一木を切ることもなければ一石を動かしたこともない」という。 「得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公(光圀)が造営したものであるが、(これらは 新たに付け加えたものであって)、威公(頼房)のなさったことは少しも変えることは なかった。」。「とはいえ、事によっては改めることもあったが、それらはみな時間が 経てば元のとおりになるものばかりであった。」。 「一本の木であっても枯れてしまったものがあれば、威公の御本意に反するだろうと、 毎年植え替えをしていた。しかし大木を切ったことはかつて一度もない。」。 松は別けて(わけても)御当家に因縁の深い木であるから(もともと松平姓だから)、 木を切らないどころか枝一本も切らせはしなかった。」というのである。 だから、光圀が新たに加えた徳仁堂などの造営物以外は、庭園はいっさい頼房時代その ままの状態であったことになる。 にもかかわらず、後楽紀事は最初から大名庭園であったかのように書くのである。 これが分からない。 たしかに鵜飼信興が後楽紀事を書いたのは頼豊による改造が行われた後である。 目の前にあるのは、各地の名所名勝の景を並べた縮景庭園である。 歩きやすい苑路も整備されている。まごうことなき大名庭園なのである。 鵜飼信興がそれ以外知らないのだとしたら、最初からそうだったと思っても仕方ないの かも知れない。 例えば「後楽紀事」は琉球山(屏風岩の後ろの小山)について、「白きつつじの木余多 (あまた)植ゑたる山なり。」と記述している。 築山にツツジを一面に植え、いっせいに咲かせて花に埋もれた山にするのは、江戸中期の 大名庭園によくある様式である。 こういったものは他にいくらでもある。熊本の水前寺成趣園、高松の栗林園、岡山の後楽園 などである。上述した岡山後楽園の唯心山は色とりどりのツツジを植えて華やかである。 しかし、もちろん最初からそうであったわけではない。 そもそも唯心山自体が後から作られたものである。 小石川後楽園の琉球山は真っ白なツツジの山にしたというのだから、おそらく富士山の景 なのであろう。こうした遊び心は江戸中期以降のもので、頼房の時代には無いものである。 江戸時代初期の庭には園芸種の草木は植えられることはなかった。 さらにツツジが庭に使われるようになるのは江戸中期以降である。 こんなツツジの山を見て、鵜飼信興はこれが最初から有ったものだと思ったのだろうか。 もしそうならかなり無邪気な人物である。たしかに鵜飼信興は庭園史などは知らなかった かも知れないが、いくら何でもそこまでものを知らない人物ではあるまい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1301900845/745
そしてこの庭園を光はほとんど変えなかった 後楽紀事にある 一木を伐り一石をうこかしたまふ事はなかりけるとこそ明遺臣舜水に命ぜられて 御園の名をえらばせられし時に中略後楽園と名付けられて御屋形より御園への 唐門にも右の三字を書して額となせり得仁堂文昌堂円月橋の類は義公上の 御経営なりすべて威公上のあそばされたる御事を少しなりともあらためたまはず されどことにより改めさせたまふこともありしかど是はまたもとのごとくに成べき ことなり一木なりとも枯たるは御本意なき御事とて年御植かへは有之候得ども 大木を伐らせらるる事はかってこれなかりけるとそ松は別て御当家へいはれある ことなれば一枝をも伐らせたまはざりけり 光は受け継いだ庭の一木を切ることもなければ一石を動かしたこともないという 得仁堂文昌堂円月橋の類は義公光が造営したものであるがこれらは 新たに付け加えたものであって威公頼房のなさったことは少しも変えることは なかったとはいえ事によっては改めることもあったがそれらはみな時間が 経てば元のとおりになるものばかりであった 一本の木であっても枯れてしまったものがあれば威公の御本意に反するだろうと 毎年植え替えをしていたしかし大木を切ったことはかつて一度もない 松は別けてわけても御当家に因縁の深い木であるからもともと松平姓だから 木を切らないどころか枝一本も切らせはしなかったというのである だから光が新たに加えた徳仁堂などの造営物以外は庭園はいっさい頼房時代その ままの状態であったことになる にもかかわらず後楽紀事は最初から大名庭園であったかのように書くのである これが分からない たしかに鵜飼信興が後楽紀事を書いたのは頼豊による改造が行われた後である 目の前にあるのは各地の名所名勝の景を並べた縮景庭園である 歩きやすい苑路も整備されているまごうことなき大名庭園なのである 鵜飼信興がそれ以外知らないのだとしたら最初からそうだったと思っても仕方ないの かも知れない 例えば後楽紀事は琉球山風岩の後ろの小山について白きつつじの木余多 あまた植ゑたる山なりと記述している 築山にツツジを一面に植えいっせいに咲かせて花に埋もれた山にするのは江戸中期の 大名庭園によくある様式である こういったものは他にいくらでもある熊本の水前寺成趣園高松の栗林園岡山の後楽園 などである上述した岡山後楽園の唯心山は色とりどりのツツジを植えて華やかである しかしもちろん最初からそうであったわけではない そもそも唯心山自体が後から作られたものである 小石川後楽園の琉球山は真っ白なツツジの山にしたというのだからおそらく富士山の景 なのであろうこうした遊び心は江戸中期以降のもので頼房の時代には無いものである 江戸時代初期の庭には園芸種の草木は植えられることはなかった さらにツツジが庭に使われるようになるのは江戸中期以降である こんなツツジの山を見て鵜飼信興はこれが最初から有ったものだと思ったのだろうか もしそうならかなり無邪気な人物であるたしかに鵜飼信興は庭園史などは知らなかった かも知れないがいくら何でもそこまでものを知らない人物ではあるまい
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