[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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752: 2022/10/17(月)08:33 ID:I1eV0Zpd0(3/3) AAS
[ 現在の後楽園について ]
中の島(蓬莱島)は見るも無惨である。
土を盛って木を植え、周囲を多少石で囲っただけである。
亀島などは徳大寺石を立てたところまではいいが、他にまともな石が一つもない。
残土置き場のようである。
竹生島などは庭師の仕事が雑すぎて、眺めていると心が荒んでくるようだ。
涵徳亭の庭に置かれた石はただ投げ出されただけのようであり、そもそも品のない石ばかり
で見るに堪えない。全体に日本庭園の格調が感じられない。
おそらく、庭園を管理しているのは日本庭園専門の庭師ではないのだろう。
都庁の役人も造園会社も、普通の公園を管理している人たちなのだと思われる。
日本庭園が公園化され、半分西洋庭園のようになるのは仕方がないことである。
苑路が普通の道路のようになり、泉水の縁がセメントで固められてもやむを得ない。
しかし、泉水の中までは人は入らないのだから部分的には本物の景観を作らないといけない。
涵徳亭の庭なども本気でつくらなければならない部分である。
京都などの、本物の石組みを築ける造園会社を使わなければ駄目だと思う。
その他、近代的・西欧的公園との関係でいうと、田圃のようなところにアヤメを一面に
咲かせるようなことは本来日本人のしなかったことである。
ああしたものは、広大な敷地一面にチューリップやラベンダーを咲かせる感覚に近い。
昔も菖蒲田のようなものは作ったが、今のようなものではなかった。
(兼六園も曲水のところにカキツバタの群生があるが、昭和51年に有料化してからやり過ぎ
である。昭和44年に園内から離れたところに梅林を作っている。あれも不要であった。
水戸の偕楽園には梅林や竹林があるが、もともとは戦時の軍糧にするためのものだった。
そもそも偕楽園は公園であって、日本庭園とはいえない)。
ともかく、広いところを一面の花畑にするというのは、田舎の市町村でもいくらでも作れる
景観であるから田舎でやればよい。
アジサイを数百・数千本植えた寺が観光名所になっているが、ああしたものもまともな感覚の
人間ならしないはずである。
田舎の寺でやっている分にはかまわないが、それは日本庭園とは何の関係もないことである。
花を咲かせるにしても万事控えめがよい。日本庭園には抑制が必要である。
侘びや寂び、枯淡の境地に通ずるものがなければならない。
何よりも大切なものは品格である。
不要なものを削ぎ、削ぎに削いだ結果ごく単純な美が残る。それが品格を生むのである。
馬鹿げた風景を作り出してはならない。
修学院離宮の庭
外部リンク[html]:kyotofukoh.jp
後水尾天皇の作庭。1596年に生まれ1680年まで長命した天皇で、徳川頼房とほぼ同時代の
人である(頼房は1603年に生まれ、1661年に死亡)。
この二人の人生は、60年近く重なっている。
後水尾天皇は庭に造詣が深く、修学院離宮の他にいくつもの庭を手がけている。
小石川後楽園が出来たときは、すぐにその絵図(設計図)を取り寄せ、これは名園なりと
感嘆されたという。
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