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18: 06/02(日)15:28 ID:gnEOidQ/0(4/10) AAS
ティチングは江戸時代の出島のオランダ商館長。
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0

「ティチングは当時の日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父であった島津重豪を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャルパンティエ・ド・コシニー(Joseph-François Charpentier de Cossigny)らによる「ベンガル航海記」に記載され、その本はオランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。
そこには、将軍の義父がティチングと始終文通を行い、ティチングの目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある。」

また、同時代の田沼意次の息子の田沼意如は暗殺されたが、ティチングは田沼意如をこう評価している。
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E7%9F%A5

「江戸市民の間では、佐野(暗殺者)を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。
江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。」

とあり、ペリー来航100年前にすでに日本の開国を、おまえが計画してたんか?ってくらいオランダ人のくせに詳しく知ってる。

ちなみに、田沼意如を斬った佐野は自害して果てたが、田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中では、田沼の跡継ぎを斬ったことを評価。世人からは「世直し大明神」と呼ばれて崇められた。(1783)
高止まりだった米の相場は投機筋の売り参入で刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて天明6年(1786年)の処分を経て田沼意次も失脚する。
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