▼▼日本近代史フリーメーソン▼▼ (269レス)
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1: 05/30(木)17:50 ID:S8mjEGDa0(1/9) AAS
日本の近代史に緊密に関わっているフリーメーソンのスレ
日本のフリーメーソンリー
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
2: 05/30(木)18:01 ID:S8mjEGDa0(2/9) AAS
フリーメイソンが最初に日本に訪れたのは江戸幕府による鎖国政策の時代であり、1779年に長崎港出島のオランダ商館に商館長として駐在したオランダ東インド会社のイサーク・ティチングが初訪日のフリーメイソンであると考えられている。
ティチングがフリーメイソンリーに入会したのは1772年、オランダ領東インドバタヴィア(インドネシアジャカルタ)でのことである。日本国内にメイソンリーのロッジ設立が始まったのはそれよりさらに後になってからである。
江戸末期の1853年、開国(開港)を日本に迫ったマシュー・ペリーはメイソンであった。ペリーは1819年にニューヨークのホーランド・ロッジでメイソンリーに加入した。ペリーを日本に遣わせたミラード・フィルモア米大統領は、フリーメイソンの集まりに参加した記録はあるが、フリーメイソンではない。
1860年2月26日(安政7年2月5日)、横浜で攘夷派によってオランダ人船長W・デ・フォスと、商人N・デッケルが暗殺された(オランダ人船長殺害事件)。外国人達は攘夷派への示威行動の意味もあり、できるだけ盛大に二人の葬儀を行おうとした。この時、殺された二人はフリーメイソンであると言われており、外国人のメイソン達は、儀式用の正装であるエプロン着用で葬儀に臨んだ。これが日本におけるフリーメイソンの最初の記録という(ただし、二人が会員であった証拠は見つかっていない)。二人は横浜の外国人墓地に埋葬され、その墓は現存している。
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二人の墓の形は珍しいピラミッド型
エプロンはフリーメーソンの正装。トルーマンやジョージ・ワシントンが着用している画がある。
3: 05/30(木)18:17 ID:S8mjEGDa0(3/9) AAS
大正時代、今井時郎や樋口艶之助は、フリーメイソンリーの自由主義・民主主義的理念を共産主義の発生源と非難していた。
昭和に入ると、『共産党の黒幕猶太民族の大隠謀を曝露す : マツソン秘密結社の正体と我国の現状』(昭和3年)、『皇輝遍照赤魔の正体を見よ』(昭和6年)などの書籍において「猶太」(ユダヤ)とともに「マッソン」(メイソン)が陰謀と見なされる。
日独伊三国同盟が成立すると、ナチス党政権下のドイツの影響で日本にも「フリーメイソン陰謀論」、「ユダヤ陰謀論」が広まった。
連合国側の原子爆弾開発「マンハッタン計画」を推進したフランクリン・ルーズベルト第32代大統領と、日本への原爆投下時の第33代大統領ハリー・S・トルーマンはフリーメイソンであった。日本への原爆投下を計画・実施したカーチス・ルメイ少将(東京大空襲指揮官)はフリーメイソンである。フィリピンの戦いに従軍の指揮官であったダグラス・マッカーサー元帥(戦後日本の連合国軍最高司令官)もまたフリーメイソンであった。
また第二次大戦下の平和主義者は、「国際連合の父」コーデル・ハルである。ハルは、第二次大戦中に国際連合(国連; UN)設立のために重要な役割を果たし、ノーベル平和賞を受賞、フリーメイソンであったという文献がある。
4(2): 05/30(木)18:21 ID:S8mjEGDa0(4/9) AAS
『戦時生活の建設』森崎善一著によると以下フリーメーソン。
「悪なきユダヤの対日謀略
1717年、今からおよそ二百数十年前に世界侵略を目標とするユダヤ総司令部は、世界侵略のための秘密結社、フリー・メイソンというものを結成したのです。これは、ユダヤ民族が表に立って、その侵略の策謀をいたしますと、その謀略を阻害される心配がありますので、特にこのような世界侵略のための秘密結社を作り、この秘密結社であらゆる策動をさせたのです。
そこでフリー・メイソンの組織実体を考えてみなければならないのですが、このフリー・メイソンが結成されました当時、どんな人物がこの結社に加わっていたかというと、エドワード7世、コンノート公、さらにアメリカにおける初代の大統領ジョージ・ワシントン、このような人物がこれに加わっていたのです。さらに最近では英国のチャーチル大統領、イーデン(イギリス外相)を始め、英国の上院議員、下院議員のほとんどが、このフリー・メイソンに加入しているのです。フランスにおいては前首相のレオン・ブルム(ユダヤ系)さらにまたロシアはどうかというと、スターリンを始めリトヴィノフ外相(実家はユダヤ銀行家)、その他国家の重要人物、めぼしい人物はほとんどこのフリー・メイソンの会員であります。一方アメリカはどうかというと、ルーズベルトを始めルーズベルトの夫人、その子供は二人とも、さらに陸軍長官、海軍長官、その外司法大臣、控訴院長という風な重要な政界の大立物、財界の大立物は大方このフリー・メイソンの結社員として入っているのです。
5: 05/30(木)18:27 ID:S8mjEGDa0(5/9) AAS
>>4続き
財界の大立物はおおかたそのフリー・メイソンのメンバーであるのです。さらにおもしろいことは、支那の蒋介石、蒋介石の夫人の宋美鈴、これらがこのフリーメイソンの結社員として入っているのです。
6(1): 05/30(木)18:38 ID:S8mjEGDa0(6/9) AAS
ジョージ4世Wikipediaより
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イギリスではジョージ2世の王太子フレデリック・ルイスが1737年にフリーメイソンに加入したのをきっかけとして、男性王族はフリーメイソンに加入するのが一般的となり、英国王室とフリーメイソンの一体化が急速に進展する。
・コンノート公…エドワード7世の弟であり、兄の即位時、代わりにフリーメイソンのグランドマスターになった。来日し、明治天皇にガーター勲章を授与した人物。
・宋美鈴…ジョージア州の高校を卒業した後に、メイコンの女子大学・ウェスレイアン大学に一年間在学してからマサチューセッツ州にある名門女子大学であるウェルズリー大学に入学し、1917年に同校を首席で卒業した。
この頃よりアメリカ系フリーメイソンリーと関係の深い「イースタン・スター」フラタニティの会員であったといわれ、中華民国に帰国した後は、布教活動に熱心であった父の意を受けて同国内においてキリスト教の布教活動を行う。
7(1): 05/30(木)18:45 ID:S8mjEGDa0(7/9) AAS
蒋介石はフリーメーソン関連組織のパゴダ結社(マサチューセッツ系)で反日親米を謀らせたことで有名。
8(1): 05/30(木)19:08 ID:XdOFqn2C0(1) AAS
ウォルト・ディズニーはフリーメーソンではないという。
たしかにフリーメーソン会員ではなく名簿にも名前はない。
しかし、フリーメーソン関連組織デモレーの会員だ。これは詭弁ではないだろうか。
明治から戦前までは、日本のロッジで日本人はフリーメーソン会員になれなかった。
だからその間、海外で入会した者を除いて日本人のフリーメーソン会員はいなかった。
坂本龍馬も福沢諭吉もフリーメーソンではありません。
9: 05/30(木)20:30 ID:S8mjEGDa0(8/9) AAS
「明治初年大学南校以来フリーメーソンの支部のような格好になって居る」
「明治5年から皇国の教が負けて西洋崇拝の教育となって居る。つまり明治初年数百名の御雇外人は英米独仏等の国籍には分かれて居たが大部分ユダヤ人でありフリーメーソンであって内心は一体となり日本をインドやマレーのやうにユダヤ人の奴隷国とする考えであったのだ。」
「英国公使パークス初め外国使臣の多くはユダヤ人であった。大学南校教頭フルベッキはパークスの叔父ギュツツラフといふオランダユダヤ人に東洋の話を聞いて日本へやって来たユダヤ人であった」。
「それが英米独仏等の国籍を以て偽装した十六の同類を以て大学南校を我物。法律、経済、哲学の三原論をユダヤ人の都合のよいもののみを以て固め日本の大学をまだ物心付かない赤ん坊の時代からユダヤの奴隷学問の府としてしまったのだ」。
「斯くして国際ユダヤ人は政府大学に巣食って帝国大学は遂にユダヤの秘密結社フリーメーソンのロッジのような形になった」。
「北大の前身札幌農学校の教頭クラークが(米国)マサチューセツのフリーメーソンのグランド・マスターであったこと」。
省1
10: 05/30(木)20:34 ID:S8mjEGDa0(9/9) AAS
大学南校=東京大学の前身の一。幕末の開成所を明治初年(1868)開成学校、そして大学南校と改称。洋学教育が行われた。明治10年(1877)東京医学校と合併して東京大学となった。
11(1): 05/30(木)21:11 ID:9oxKclWH0(1) AAS
>>8
ウォルト・ディズニーがフリーメイソン会員ではないのは事実だけど、デモレー会員だったってのは興味深いね。明治から戦前までの日本の特殊な状況も考えると、なかなか単純な話じゃないよね。
でも、坂本龍馬や福沢諭吉もフリーメーソンじゃないってことは、当時の日本社会におけるフリーメイソンの存在感って、意外と限定的だったのかな?もしかしたら、表面に出てこないだけで、もっと多くの著名人がデモレーのような関連組織に関わっていた可能性もあるよね?
12: 05/31(金)00:47 ID:isN4QosK0(1/3) AAS
グイド・フルベッキと一時期同じ寺に住んでいた盟友の宣教師、チャニング・ウィリアムズは、多くの人材に影響を与えた。
奇兵隊の高杉晋作。大隈重信、副島種臣、前島密(郵便局)には英学を教えた。維新後は勝海舟と交流があった。維新前夜の長崎の様子がこう書かれている。
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「この頃の長崎では龍馬や荘村をはじめとする幕末の志士たちが多く活動した。ウィリアムズ、フルベッキが当初暮らした崇福寺と志士たちも利用した料亭花月のある丸山、志士たちのスポンサーであったとされる大浦慶の邸宅、ウィリアムズ、フルベッキがその後暮らした東山手居留地、志士たちに艦艇や銃器を提供販売し、亀山社中とも取引を行ったトーマス・グラバーのグラバー商会やグラバー邸は、程近くにあり、海外の情報を得て学びたい志士たちと、外国人たちのコミュニティが出来上がっていた。
大浦慶と手を組み製茶貿易で成功し、土佐藩が頼りにしたウィリアム・オルトが経営するオルト商会やオルトの邸宅も近くにあった。東山手居留地の英国聖公会会堂は、長崎に駐在する欧米の外国人たちが集い礼拝する場所であった。教会管理人の一人をグラバーが務めた。
日本のその後の動きを決める、話し合いがこの長崎のコミュニティでなされたと言ってよい。またウィリアムズを訪れる日本人の将校は、公式な訪問を避けるために、夜間に訪れるなど、秘密裏に情報交換をしていた。1864年4月にはウィリアムズとフルベッキの2名による「日本の当局に抑圧された日本の”浪人”や長州藩の下関戦争」の内容を含むレターを米国聖公会海外伝道委員会が機関紙に取り上げている。」
フルベッキ群像写真が撮られた上野彦馬写真スタジオも近所にある。坂本龍馬や高杉晋作などもそこで撮影。
13: 05/31(金)00:58 ID:isN4QosK0(2/3) AAS
>>11
戦前では秘密結社が禁止されていたので、フリーメーソン側が外務省と交渉して、フリーメイソンリーは保安条例の対象外とする代わり、日本人を入会させないこと、日本社会への接触・宣伝をしないという「紳士協定」が日本政府との間に交わされたそう。
長い間フリーメーソンは隔絶された存在ではありましたが、大学南校のようにフリーメーソンのロッジのような集まりと活動をする団体はありそうです。
戦後は日本人も入会できるようになったのでそういうメーソンに準ずる団体は消えたのかも。
14: 05/31(金)01:35 ID:isN4QosK0(3/3) AAS
100年後の世界を正確に予測できる人間がいるだろうか?
安政の大獄で処刑された橋本左内はまるで予言者のよう。
左内は江戸で西郷とも交流があった。
「日本を独立といたすには、山丹(※)・満洲・朝鮮国をあわせ、かつアメリカあるいはインド地内に領地を持たなくてはとても望みの通りにならない……中略、山丹辺りは魯国(ロシア)で手を付けかけております。その上今は力足らず、とても西洋諸国の兵に対し毎年連戦は疑わしくありますので、かえって今のうちに同盟国に互いになることがふさわしくあります。私はぜひロシアに従いたく……そのわけはロシアに隣境であり、かつ……下略)
と書いている。朝鮮満洲の辺りまで併合しなければ完全な独立は望み難いという説は、今日の状勢から考えてみて、その卓見に驚かざるを得ないところである。」by山本周五郎
※山丹とは中国とロシアが隣接する張鼓峰のあたりで、満州事変などからの緊張情勢から張鼓峰事件(1938年7月末〜8月上旬)が起こる。
左内が望むようなロシアとの同盟は組めなかった代わりに日露戦争になったが、宣教師などの外国人から100年後の日本の青写真を聞かされたんじゃないのか。
アメリカとインドを植民地にすると言ってるのでイギリスを手本にしていて、イギリス人が志士に吹き込んだようにも思う。
15: 06/02(日)15:06 ID:gnEOidQ/0(1/10) AAS
明治政府は日本でのフリーメーソンの活動に制限をつけたので、戦後にマッカーサーなどが尽力して日本にフリーメーソン・ロッジを作るまでは、日本人入会者は建前上いなかった。
しかし、外国のロッジで入会する者がいたり、フリーメーソンとは言わずにメーソンっぽい集まりや活動をしている団体はあったようだ。
日英同盟を結んだ林薫も調印後にイギリスのフリーメーソンに入会し、マスターメーソンに昇級している。
フリーメーソン日本ロッジで一番数が多いのは米軍人。在日米軍施設内にもロッジがあり、日本のロッジは他のフリーメーソンから、ミリタリー・ロッジと呼ばれている。
(フリーメーソンWikipedia組織欄の会員数欄)
外部リンク:ja.wikipedia.org
だから日米合同委員会で日本の官僚が言いなりになっている相手はフリーメーソンでもある。
ちなみにフリーメーソンジャパンのサイトでは、戦前ナチスはユダヤ人とフリーメーソンを迫害していた歴史はあるが、フリーメーソンとユダヤ人は無関係としている。
そのフリーメーソンジャパンのサイトにもあるし、日本のフリーメーソンリーWikipediaにもあるが、日本に来た最初のフリーメーソンはイサーク・ティチィングだ。
16: 06/02(日)15:09 ID:gnEOidQ/0(2/10) AAS
フリーメーソンWikipedia-組織-会員数
「会員数については上述したが、非公開的な結社である為、異説もあり、日本グランド・ロッジによれば、世界に上述の半数の約300万人とされている。また、2011年に『ウォール・ストリート・ジャーナル』が報じたところによると、2000年代半ばに200万人を切り、現在は140万人になっている。
『朝日新聞』に明らかにしたところによれば、日本での会員数は約2000人で、多くは在日米軍関係者。日本人は300人程度という。その為海外からの日本グランド・ロッジに対する認識はいわゆる「軍事ロッジ(または「ミリタリー・ロッジ」)」であるという。
日本人における会員第一号は、西周。米軍関係者は国外への異動も多くその実数は変動する。また、日本国内には、フィリピン系ライジングサン、黒人系プリンスホール等のロッジ、及び会員も別途存在する為、正確な会員数は不明。日本のロッジでは英語と日本語、またはそのいずれか一方が使用されている。」
17: 06/02(日)15:21 ID:gnEOidQ/0(3/10) AAS
在日米軍にもあるフリーメーソン・ロッジ
フリーメーソンWikipedia特徴欄
外部リンク:ja.wikipedia.org
「フリーメイソンリーは、原則として国や州を単位とする、グランド・ロッジ(Grand Lodge(英語版))と呼ばれる本部があるものの、全体を統制する総本部はない。ただし、最初にグランド・ロッジの成立した、イングランドのグランド・ロッジによる認証が本流であるとする認識から、これを「正規派」「正統派」と称し、同グランド・ロッジが認証しないロッジは非正規な存在と見なされることが多い。以下の「#会員数」「#入会条件」も、正規派とされるフリーメイソンリーの例である。
グランド・ロッジはプロビンシャル・グランド・ロッジ(Provincial Grand Lodge)やディストリクトグランドロッジ(District Grand Lodge)と呼ばれる県・地域支部、および直轄に管理されるロッジで構成され、県・地域支部はロッジと呼ばれる支部から構成される。ただし、活動規模の小さい国や地域では、グランドロッジは県・地域支部を置かず、ロッジを直接管理している場合もある。日本においては一般財団法人日本メイスン財団(公益法人制度改革に伴い、厚生労働省所管の公益法人であった財団法人「東京メソニック協会」から2012年4月1日改組)と任意団体「日本グランド・ロッジ」傘下のロッジ群の2形態で構成され、日本メイスン財団所有の建物に日本グランド・ロッジが入居し、各ロッジの福祉関連事業は財団の事業予算で支援されている。また、イングランド系、スコットランド系、フィリピン系、アメリカ・マサチューセッツ州の系統、アメリカ・ワシントン州のプリンス・ホール系(黒人系)ロッジが日本グランド・ロッジとは別系統で存在する。それらの殆どは【【在日米軍基地内にある軍事ロッジ(軍人により設営されるロッジ)である。】】
ロッジは他のロッジから認証されることで、フリーメイソンのネットワークに加入できる。あるロッジの振る舞いがフリーメイソンリーとして不適切であった場合、他のロッジはそのロッジへの認証を取り消すことで排除する。正式名称が Free and Accepted(承認された) Masons であるのはそのためである。」
18: 06/02(日)15:28 ID:gnEOidQ/0(4/10) AAS
ティチングは江戸時代の出島のオランダ商館長。
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0
「ティチングは当時の日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父であった島津重豪を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャルパンティエ・ド・コシニー(Joseph-François Charpentier de Cossigny)らによる「ベンガル航海記」に記載され、その本はオランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。
そこには、将軍の義父がティチングと始終文通を行い、ティチングの目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある。」
また、同時代の田沼意次の息子の田沼意如は暗殺されたが、ティチングは田沼意如をこう評価している。
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E7%9F%A5
「江戸市民の間では、佐野(暗殺者)を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。
江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。」
とあり、ペリー来航100年前にすでに日本の開国を、おまえが計画してたんか?ってくらいオランダ人のくせに詳しく知ってる。
省2
19: 06/02(日)15:44 ID:gnEOidQ/0(5/10) AAS
ティチングめっちゃスパイじゃん
フリーメーソンってティチングからペリーまで日本開国計画してたでしょ?
ティチングと文通していた島津重豪の娘は徳川家斉に嫁いだ。家斉は一橋家から将軍徳川家治の養子に入った。
家治の息子は若くして死んだ。毒殺ともいわれ、田沼意次や家斉の父の一橋が仕組んだともいわれる。
急死後、田沼意次と家斉の父は家斉を将軍にするように後継工作をしている。
そしてこういう時の将軍後継のはずだった松平定信は、両親の反対にも関わらず、田沼意次の工作によって、事前に松平家の養子になっている。
「一橋治済が尾張家、水戸家の当主に語ったところによると、松平定邦が溜詰への家格の上昇を目論み、田沼意次の助力により田安家(松平定信実家)の反対を押し切って定信を白河松平家の養子に迎えたという。」
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
家斉の実父の徳川治済、義父の島津重豪、家斉の側近中の側近である中野清茂は、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁のことわざが作られたという。
(漢学者・五弓久文が著した徳川家斉の伝記『文恭公実録』)
省3
20: 06/02(日)16:08 ID:gnEOidQ/0(6/10) AAS
家斉と島津の娘の子は夭逝してしまい夫婦は悲しんだ。
次の将軍は家慶。家斉とは仲が悪かった。そしてペリーが来た約20日後に家慶は暑気あたりで死んだ。将軍を失った幕府は、家臣の阿部正弘が外様大名にペリーからの手紙を見せ、政治に参加させ、外様大名が力を持ち幕府の権威は衰えた。
家慶の妹は、水戸家に嫁いで慶喜の父を養子にしてるが兄家慶の死の四日後に死んだ。偶然?
水戸から一橋へ養子に入った慶喜についておかしいと思うところがあるのだが、その養子の経緯の真実を知っているから家慶の妹は死んだ?
徳川慶喜Wikipedia一橋家相続欄
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
「老中・阿部正弘が「昭致を御三卿・一橋家の世嗣としたい」との将軍・徳川家慶の思召(意向)を弘化4年(1847年)8月1日に水戸藩へ伝達。思召を受けて昭致は8月15日に水戸を発ち9月1日に一橋徳川家を相続。12月1日に元服し、家慶から偏諱を賜り徳川慶喜と名乗る。家慶はたびたび一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘に諫言されて断念している。」
一橋9代当主慶喜の前の、一橋8代当主徳川昌丸は引化4年5月に一橋の当主となり、同年8月20日に2才で夭逝していて、本当に家慶は慶喜を一橋当主にしようとしてたの?
省2
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