[過去ログ] ▼▼日本近代史フリーメーソン▼▼ (815レス)
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106: 2024/06/20(木)20:28:48.16 ID:Sa2YmsKS0(5/5) AAS
渡辺悌治が昭和15年(1940)、国学院大学で卒業を前にしてまとめていた論文の参考にしたコルリッジの著の中で、ザビエルがロヨラに送った書簡の下の一文を見た。そこには、
「この国には食べ物に禁忌はない。そして割礼を行わない。そのためこの国土に福音が説かれたとしても、その罪のため、信仰の光明は暗くされ、それによってイスラム教のような異教に根こそぎ取り去られてしまうのであろうと思われる。」
日本人が割礼を受けていないから信仰の光明が消されると言えるのは、2人がユダヤ人同士だからである、と。
124: 2024/06/23(日)08:29:01.16 ID:IoeH+/iX0(1/19) AAS
割礼とは…陰茎の包皮を輪状に切り取る風習。現在でもユダヤ教では生後8日目の男児に施す。

渡辺悌治は東北大学神学部で、神学博士の言語学者でユダヤ人サイプル博士の講義の時間に割礼の説明を受けた。
驚いたのは女子の割礼の説明もあったこと。
男子は包皮を、女子は陰核の先端を削ぐのだという。さらに恐れ入ったのは、「割礼は衛生のためと言っているが、それは性感を早めるため」という説明だった。
171: 2024/08/05(月)21:18:59.16 ID:GqGWddIk0(1/2) AAS
19世紀後半、日本は開国し、外国との貿易が盛んになるとともに、ユダヤ人コミュニティが形成され始めました。1848年には、琉球王国(現在の沖縄)の首府・那覇に、イギリス国籍の医師でありプロテスタント宣教師でもあったバーナード・ベッテルハイムが家族とともに移住し、ユダヤ人として初めて日本に居住した記録があります。ベッテルハイムは、琉球王府の医師として活躍しながらも、ユダヤ教の信仰を守り続け、日本におけるユダヤ教の歴史において重要な人物の一人として位置づけられています。

本土においては、1860年頃に長崎の外国人居留地を皮切りに、ユダヤ人コミュニティが形成されました。横浜の外国人居留地には、幕末の時点で50家族ものユダヤ人が居住し、活発な活動を行っていたことが記録されています。これらのユダヤ人たちは、貿易商や技術者、船員などが多く、横浜山手外国人墓地には、ダビデの星を刻んだ墓碑が数多く残されており、当時の様子を偲ぶことができます。

1861年には、ロシアやポーランドで発生したポグロムを逃れて、多くのユダヤ人難民が長崎に上陸しました。彼らは、長崎のユダヤ人コミュニティをさらに拡大させ、宗教や文化の交流を深めました。

1894年頃には、長崎に日本初のシナゴーグ(ケヒッラー)が建てられ、ユダヤ人コミュニティの中心的な役割を果たしました。シナゴーグには、ラビと呼ばれる宗教指導者が常駐し、ユダヤ教の教育や宗教儀式が行われていました。また、ユダヤ人学校も設立され、子供たちにユダヤ教の教えやヘブライ語が教えられました。これらの記録は、当時のユダヤ人たちが宗教教育を非常に重視していたことを示しています。
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(1): 2024/09/04(水)10:45:57.16 ID:4RPSwRRj0(3/7) AAS
フルベッキ群像写真は1865年に撮られたのはデマで1968年に撮られたとしているが、初めはフルベッキと一緒に写っている子供は長男のウィリアム(1861年1月生まれ)と紹介してたが、それだと整合性が取れなくなるから最近は妹のエマ・フルベッキ(1863年2月生まれ)に改造したんだな。髪の毛短くて女の子っぽくないけど。
358: 2024/12/19(木)10:47:44.16 ID:DknwgOR60(5/14) AAS
日本人を英語得意にさせて出稼ぎに追い出す政策なのかな
でも明治の日本人は英語できなくてもブラジル移民に行ったが
427: 2024/12/26(木)14:37:57.16 ID:v4P7gOjY0(6/9) AAS
p313 緑色の蛇
フリー・メーソンのこの一つの位階における『儀礼』と『象徴』と『秘儀』とを知らされた時人々は、また次のような疑問をもつでしょう。

どうして、このような慣習に没頭し、このような行き過ぎた宗教儀式を行い、かつそれに参加するのであろうーーかと。

そして、この疑問に対して、人々は色々な理屈をつけて解釈するに違いないのです。試みに読者諸氏は、前掲の疑問について、どういう判断を下されますか。
ある人はこんな風に解釈するでしょう。曰く、『ふふん、ずいぶん馬鹿馬鹿しい話さ、メーソンの「儀式」「象徴」「秘儀」なんて、仮装舞踏会か、天勝の奇術をみているようなものさ』と。
またある人は『なるほど、メーソンというやつは、恐ろしいやつだ。「儀式」「象徴」「秘儀」の芝居がかった所作の裏にはもっと、大きな謎が隠されているに違いない』と。
またある人は『人間というものは「象徴」や「儀礼」によって本心を奪われ、魂を迷わされるということがあり得るものだということを、メーソンの怪奇によって知った』と。
しかし、これらの回答は、いずれも、メーソンの怪奇の真の急所はついていないのであります。メーソンの結社員になっても、最低位階の『徒弟』から第二十九位階までの間は、メーソンの企図する現実政策や文化の目標については、本当に知らされていないのであります。第三十位階から三十三位階までの最高位階の者だけが、メーソンの戦慄すべき意図を心得ているのであります。従って、第三十位階以上の『儀礼』『象徴』『秘儀』がどんなことをするかを知ってメーソンの正体がはじめて判るのであります。
メーソン結社自体は『政治的秘密結社ではない』と断言していますが、事実は明瞭な政治的秘密結社であります。現在四百五十万人が、結社員として、世界の各地に同胞的連鎖をもって、秘密の政治的活動をしているのであります。
メーソン結社が生まれてから二百年以上、彼らは、いかに口先であるいは文書によって、政治的秘密結社でないと弁解しても、結社の歴史は、何よりも雄弁にこれを証明しているのであります。
省11
562: ブログ転載 01/15(水)18:37:00.16 ID:yhHOo6aw0(2/7) AAS
ヘルバー・レオナルドは、某国生まれのユダヤ人で本国の工業大学卒業後、ある会社に勤務し自ら志望して日本特派員となり、昭和十年二月に来朝しました。日本に着任後、ビジネス・ウィーク、ケミカル・インダズトリーなど有名な雑誌社の寄稿家となり、日本の政治、化学、工業方面の調査研究を各雑誌に通信していたものでありますが、昭和十二年七月女給の小高秋子(仮名)と同棲するようになってから、軍事機密にわたる事項を探って米国に通報していたもので、昭和十四年五月頃某国人から諜報指令を受けて、飛行機に関する軍用資源秘密の諜報に取りかかり、日本の陸海軍における現用、計画、試作あるいは実験中の各種飛行機に関する情報を探ろうとし、自分が通信員であることを奇貨として、中島飛行機製作所と密接な関係のある日本人に接近、一流の料理店やホテルなどに招待して御馳走をして、秘密の獲得に努め、一ヶ月間にどのくらいの飛行機が製作されるかとか、その性能、発動機の種類、優秀機の内容などを、根掘り葉掘りして聞き出そうとしたものであります。
604: 01/19(日)00:55:51.16 ID:UneiqI4s0(3/4) AAS
これは想像だから笑いながら聞いてほしいんだが、竹内古文献が事実だとして、モーゼが天皇から十戒を授かった。(天皇=神=エホバ?伊勢神宮の八咫鏡に書かれたヘブライ語)
天皇だとしたら、なぜユダヤ人を区別して優遇する?それはユダヤ人が改変したのかも。
十戒もわりとまともなことが書いてあるのに、ユダヤ人が曲解してユダヤ教は攻撃的な教義になったのではないか。
それから千年以上経ってキリストが日本で修行して、神から優遇される教義のユダヤ教は間違っていて本当はこんな教義だよとキリスト教を広めてユダヤ人に憎まれて処刑される。
というストーリーを思いついた。

そして現代、神国の日本人を絶滅させて、ユダヤが乗っ取った後日本人を自称し、都合よく竹内古文献は本物だと宣伝し、ユダヤ人が日本人になりすまして神国の住人になる。
704: ブログ転載 01/29(水)07:54:08.16 ID:XuV6kbFE0(1) AAS
AA省
813: ブログ転載 02/09(日)14:44:40.16 ID:CoG7g2Cx0(1/3) AAS
p458 各地での状況

大革命以前のフランスのユダヤ人は、市民的諸権利を持たなかった。しかし彼らはいくつかの豊かな共同体を発展させ、何人かの力ある指導者を産み出した。それらの指導者の中の一人は、アミヤン市を含む領地を購入した。彼は大聖堂の法規を定めるため、彼の封建的権利を行使した。司教たちは抗議した。1787年、パリ高等法院はユダヤ人領主を指示した。フランス政府はスペインとポルトガルの王位継承戦争の時ユダヤ人の金融資本家から受けた支援に感謝し、それに答えたのだった。
1720年にジョン・ローの投機事業が失敗した後、インド会社の再建に当たってユダヤ人は重要な役割を演じた。ボルドーのユダヤ人は特に富裕だった。それらの商人や銀行家は、誠実さと寛大さで有名だった。しかし彼らはセファード系のユダヤ人(訳註・スペイン、ポルトガル系ユダヤ人)であることに誇りを持ち、アシュケナージ系ユダヤ(訳註・ドイツ、ポーランド、ロシア系ユダヤ人)を全てボルドーから駆逐してしまった。
十八世紀のスペインでは、ユダヤ人を公然と名乗る者はいなかった。スペイン・ブルボン王家支配の初期に、いくつかの小集団はフェリペ五世の一見啓蒙的な統治のもとで、再びひそかにユダヤ教の礼拝を実施しようと考えた。礼拝は多くの場合発覚した。1700年から1720年の間に、宗教裁判所はバルセロナで三人、コルドバで五人、トレドで二十三人、マドリードで五人のユダヤ人を死刑に処していた。今度の新事実に激怒した宗教裁判所は、新たな活動を開始した。1721年から1727年にかけて法廷が取り上げた八百六十八件の事件のうち、八百件以上がユダヤ人を対象としたものだった。そして、そのうち七十五名を火刑に処した。
しかし、このような事例は以後はきわめてまれになった。宗教裁判所の歴史の晩年に当たる1780年から1820年の期間、スペイン宗教裁判所は五千人の被告を尋問したが、そのうちユダヤ教関係の者は十六人だけであった。しかもそのうちの十人は外国人であった。スペイン法は一貫して「純血」、すなわちユダヤ人の祖先の血が混ざらない血の純粋さを証明できない人々を、全て文官や軍人から除外していた。改革論者は有能な人々を軍と行政から閉め出すこの規定に不満を抱いた。そして、1783年にカルロス三世はこの法の規制を緩めた。
ポルトガルでは、宗教裁判所はユダヤ教の放棄を拒絶したかどで、1717年に二十七名のユダヤ人を火刑にした。イギリスの桂冠詩人サウジがポルトガル最大の劇作家として評価したアントニウ・ダ・シルヴァは、1712年にリオデジャネイロからリスボンにやってきた。彼と母はユダヤ人という嫌疑で捕らえられ、母は火刑にされた。息子は信仰の放棄を誓って釈放されたが、彼は明らかに再度改宗したようである。なぜなら1739年に彼も三十五歳で火刑にされたからである。ポンバル公はその多くの改革の一環として、在来のキリスト教徒と新しい(改宗した)キリスト教徒との間にあったすべての法的差別を1774年に撤廃した。
イタリアではヴェネチアがユダヤ人を解放する方向に向かった。1772年、ヴェネチアのユダヤ人は自由であり、他の住民と全く対等であるという布告が出された。ローマはちゅうちょしていた。ローマのユダヤ人街(ゲットー)は、ヨーロッパで最悪なものだった。律法学者(ラビ)たちが奨励した出産の増大は、貧困と不潔を一層ひどいものにした。ある時は、一平方キロに一万人ものユダヤ人が住んでいた。毎年、ティベル川が氾濫してゲットーの狭い路地をおおい、部屋を泥土で満たした。ほとんどの商業上の仕事から除外されていたため、ローマ市に住むユダヤ人は仕立て職人になった。
1700年当時、ユダヤ人の成年男子の四分の三は仕立て屋で、その慣習は今日に至るまで続いている。1775年、教皇ピウス六世は古くからあったユダヤ人に対する禁令を更新し、さらにこれに新しい禁令を加えた「ヘブライ人に関する教書」を布告した。そのためユダヤ人は馬車に乗ることや埋葬の時葬送歌を歌うことを禁止され、さらに死者のための墓石も建てられなくなった。ローマに住むユダヤ人がこのかせから解放されるには、ナポレオンの時まで待たなければならなかった。
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