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38: 2024/06/14(金)07:38:54.77 ID:PrMG6tbY0(3/11) AAS
鞍替えした昔の人は、ソ連で死んだけど、生きていて戦後も、ユダヤ人の世界統一思想そのままの世界連邦建設連盟が発足されたと知ったら、再び反ユダヤ主義になったと思うぞ?
173: 2024/08/06(火)05:40:01.77 ID:8kqFiAZs0(1/2) AAS
>>170
山ノ手外国人墓地には三角の墓がある
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
上海の旧サッスーン邸の屋根も三角
デイビット・サッスーンは東洋のロスチャイルドとも呼ばれるアヘン貿易で富を築いた阿片王でフリーメーソン首脳
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
283: ブログ転載 2024/11/27(水)11:28:41.77 ID:3iC3zs020(3/11) AAS
p5
○日本識者の関心
日本においても支那事変によるユダヤ問題の表面化に伴い最近急激にユダヤ問題が識者の間に関心を持たれ、官公署有力団体よりの講演依頼に忙殺されるようになり、商工会議所、工業倶楽部、貿易協会なども真剣にこの問題を聞くようになり、我々研究同人多年の苦心もようやく報いられるようになりました。文教機関においても論議されるようになり、認識は相当徹底しつつあるのであります。例えば「文部時報」国民精神総動員特集号において、菊地教学局長官は『支那の背後に巨大なユダヤ系の支援使嗾が潜んでいることを忘れてはならない』と説かれております。
○国際秘密力と世界大戦
ウィッカム・スチードは欧州大戦中、諸国の宣伝機関を指揮したノースクリツフの下にあって、対オーストリア=ハンガリー帝国宣伝部長として、民族自決の偽装の下に謀略的宣伝戦を指揮し、オーストリア軍戦線に盛んに行い、オーストリア国戦線を崩壊させ、ユーゴスラビアという国を作り上げ、オーストリア国崩壊、したがってドイツ敗戦の緒を開いた功労者であります。彼がこの成功を勝ち得た背後には、謀略的宣伝戦におけるユダヤ人ノースクリツフの能力、いや、そのバックに控えている「国際秘密力」が欧州政治外交に及ぼしている威力によるものであることはあきらかであります。当時からユダヤ人の世界制覇の野望は燃えるかのようなものがある事が西洋人にもだんだん分かりだしたのであります。
※使嗾(しそう)=人に指図して、悪事などを行うように仕向けること。指図してそそのかすこと
453: ブログ転載 2024/12/30(月)00:40:29.77 ID:yHez/r9s0(2/2) AAS
今次の欧州大戦開始後フランスが脆くもドイツの電撃の下につぶれ去って、その廃墟の中から立って上がったペタン政権の樹立の日、すなわち一九四〇年七月十一日ペタンは何と言ったか。
曰く「フランスを堕落させて惨敗させた者はフランス人の勤労を食い物とした国際的資本主義と国際的社会主義(共産主義)であった。この両者は表面互いに抗争の風を装いながら裏面において互いに提携していたのである」と悲痛な言を吐いている。この両者がユダヤ力の支配範疇のものである事は言うまでもないが、第一次世界大戦において惨敗したドイツの識者が戦後の敗因研究から発見したものは、同じくユダヤ力によって動かされた資本主義と共産主義の並用によるドイツ破壊工作であったのである。
このようにユダヤ問題すなわちユダヤ民族の世界支配に対する思想や行動が、ユダヤ以外の各民族国家の生存とは根本的に相反する存在である事は明瞭に実証されるのであって、この点についてユダヤは従来彼らが独占する言論機関によって、あるいは否定し、あるいは歪曲し、隠蔽してきたのであるが、時には堂々とそれを告白する者もいるのである。例えばユダヤ人著述家ルネ、グロース曰く「あらゆる国民と国家に対するユダヤ人の陰謀がある。それはユダヤ人の策動による革命とユダヤ財閥の資本的強圧という二重の攻撃である。」
また、ユダヤの民族運動であるシオン団の統率者であるワイズマンが、一九二一年九月カールスバズで開かれたシオニストの首脳者会議で、「近い将来において、ユダヤ民族の運動は世界における最大な問題として取り扱われるであろう。何故なれば、ユダヤ民族運動の勢力は世界を統一して人類支配権を確保するか、あるいはまた反対に全世界を撹乱して、社会を微塵に破壊するか、いずれにしても世界の人類社会を根本的に転換させる一大勢力であるからである。」と言っている。
このようにこの民族は世界支配権を獲得するかあるいは世界を破壊するかの二筋道を往来しているが、しかし不可思議な現象は、彼らが世界流浪二千年の今日までの歴史においては、ほとんど他民族国家の破壊に成功した事実だけで、彼らの理想する世界支配の実現は、なかなか困難な課題として、彼らの前途に横たわっているのである。時には支配実権が握られたような時もあるが、そういう時には必ず他民族の復讐が起こって国外追放をされたり、虐殺されたりしている。米国のウィリアム・ハミルトンの研究によれば、西紀二十年から一七四五年までに、この民族の国外追放五十一回、虐殺十三回を挙げている。
それなのに欧米の他民族もまたユダヤ民族に不断に復讐されて、興亡常なき原因は果たしてどこにあるかと言えば、一つはユダヤ問題の真相が、彼らの巧妙な偽装作用によって不明であった事にもよるが、それよりもユダヤ工作なるものが人間の持つ自己本位の利欲性を利用して、それを根幹とした社会に世界人を立たせ、世界人もまたそれが真の社会と誤認させられた所に最大原因があるのである。そしてユダヤは裏で金権の元綱を握って世界を金で動く組織にしてこれを支配してきたのである。
世界に自己本位と唯物思想に立たせた事はすなわち、人間を神から切り離して地上に落とす事に成功した事を意味するのである。換言すれば天理自然の法則に立つ事を捨てさせて、非自然の人為的に置いたのである。人間が唯物的な立場に立てば、ひたすら金銭と利欲を追う事になる結果は、道義が利害によって歪曲されることとなり、さらに事物に対する観察においてはユダヤ人が独占する言論機関から与える理論(ユダヤは物の動きに対して必ず理論と法則を与える)と、現象(ユダヤの言論戦術は、捏造、歪曲、解説、打診、両建、予告の交互の作用を為す)によって、一切を判断する事となる。その結果は国家が疲弊と弱体に陥り、そして他民族が困窮する後ろで、ユダヤ人は冷たい悪魔的な笑いを浮かべているのである。
ユダヤ問題の本質はほぼこの通り。世界人はこの迷夢から速く醒めて、改めて天理自然の道に帰らなければならない。
814: ブログ転載 02/09(日)16:52:23.77 ID:CoG7g2Cx0(2/3) AAS
p460 抵抗を受けたヨーゼフの勅令
オーストリアでは、マリア・テレジアがその信仰の敬虔さからユダヤ人を特定の地域に居住させ、彼らが手工業を営んだり、公職についたり、不動産を所有したりするのを禁止した。フランス啓蒙主義の洗礼を受けた彼女の息子ヨーゼフは、1781年、この先祖伝来の国土──オーストリア、ハンガリー、ボヘミア──でかなりの割合を占めるイスラエル人を、有効に社会に貢献させようとする計画を枢密院に提出した。ユダヤ人には教育を奨励すべきであり、三年後には一切の法律、政治、商業上の業務に際して国語を使用させるようにする。ユダヤ人は何ら妨げられることなく礼拝を実施し、教義を説くことができる。ユダヤ人は農業部門に参加し、商、工業部門に関与し、芸術活動を行うことができる。──ただし、ユダヤ人はなおギルドの親方にはなれない。なぜなら、親方になるにはキリスト教信仰の宣誓がいるからである。これまでユダヤ人に加えられていた一切の侮蔑的な差別や圧迫は廃棄される。「一切の外見上の記章ももちろん除去される」。枢密院と地方行政官はこの案があまりにも多方面にわたる条項を含み、またあまりにも突然であったため承認に反対した。
ヨーゼフは一歩を譲り、1782年1月2日にウィーンと低地オーストリアのユダヤ人に対して「寛容の勅令」を布告した。それによってユダヤ人はその子弟を国立の学校やカレッジに入学させる権利を得、また不動産の所有を除く経済行為の自由を享受した。しかし、彼らは社会から分離した宗教的団体を保持することを禁じられ、首都にユダヤ会堂(シナゴーグ)を建てることも禁じられた。彼らはさらに一部の都市に住むことを禁じられた。それはおそらく、その地の反ユダヤ主義運動が危険なほど先鋭的だったためであった。ヨーゼフはキリスト教徒の臣下に対して、ユダヤ人の人格と権利を隣人として尊敬するように勧めた。ユダヤ人に加えられる侮蔑や暴力は、いかなるものであれ「きびしく処罰」された。また強制による改宗がなされてはならなかった。やがて皇帝は同様の勅令を、ボヘミアとモラビアとオーストリアのシレジア地方ににも布告した。彼は国庫にもたらすユダヤ人の貢献を認めた。彼は何人かのユダヤ人を貴族の列に加え、何人かのユダヤ人を国家の財務官として採用した。
しかしウィーン駐在のフランス公使の伝えるところによると、この改革は「不承認の一切の叫びを引き起こした。──ユダヤ人にこのような便宜を与えることは、国家の破壊につながると考えられた」。キリスト教徒の商人は新たな競争を嘆き、司祭たちは異端を野放しにするものとしてこの勅令を非難した。律法学者(ラビ)の中のある者は、ユダヤ人の子弟を国立の学校に出すことを拒んだ。彼らはこの制度がユダヤ人の若者をユダヤ教から遠ざけることを恐れた。しかしヨーゼフは初志を貫き、死の一年前にはこの寛容令をガリチアにも拡大した。そこにある一都市プロディには、一万八千人にものぼるユダヤ人が住み、皇帝はそこを近代のエルサレムと呼んでいた。ヨーゼフの死んだ1790年までにウィーンは新しい特許状を積み重ね、その地は十九世紀に開花するウィーンの見事なユダヤ・キリスト教文化を準備した。
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