南京大虐殺は史実★2 (520レス)
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35(1): 08/31(土)02:13 ID:0Xva1vcV0(1/4) AAS
前スレ
>>999
>さて、「郷土部隊奮戦記」が正しいのであれば、「115i配属の軽装甲車中隊(小倉第五大隊)wと共闘した」と書かれた「第一大隊戦闘詳報(偽)w」の唯でさえゼロに等しい信頼性が更に地に堕ちてマイナスレベルまで落ち込むわけだがw
相変わらず、意味不明の主張を述べているようですが…
戦後証言と一次史料である戦闘詳報を比較すれば、戦闘詳報の方が真実性が高いと考えるのが普通です。
一一四師作命第四十九号(十二月二日午後七時/於宜興)でも、戦車第五大隊が第百四師団に配属されていることが確認できます。
そもそも115i【第三大隊】(←部隊名は正確に)戦闘詳報に記述されている「戦車隊(戦車第二聯隊長細見中佐指揮)」こそが不正確で、この戦車隊は戦車第五大隊(長・細見中佐)です。
独立軽装甲車第六中隊(長・井上中尉)は正確な記録はないようですが、井上中尉の記述によれば、当時は第六師団右翼に配属されており、中華門正面を中心に布陣していたとのこと(このときの模様は写真撮影され、報道されている)です(『戦車第十三聯隊史』)。
これらの史料から判断すれば、共闘した軽装甲車隊を独立軽装甲車第六中隊とした小宅曹長の証言こそが誤っており、66i戦闘詳報の方が正しいと考えるのが普通です。
小宅曹長の証言は戦後の証言ということもあり、戦闘詳報と比較すれば『奮戦記』にしても『城壘』にしても史料価値は低く、特に『城壘』は記憶の変質が見られる上、南京事件否定論者である阿羅氏のインタビューであることから、否定論に有利に証言している(もしくは誘導されている)可能性も考慮する必要があるでしょう。
前スレ
>>1000
>結局あなたは「山形分隊長が手塚清中隊長の回想部分から小隊を変更になった根拠は提示できない」という事ですねw
根拠は既に挙げているとおり、小宅小隊が中隊主力からはぐれた後の行動として、軽装甲車隊との共闘で山形、田波分隊を抽出しているからです。『奮戦記』と『城壘』では、小宅曹長の証言は明らかに事実関係が転倒しています。10年の歳月が記憶を変質させたのでしょう(意図的の可能性もあるが…)
『野州兵団奮戦記』
そのとき、第四中隊は第三中隊の右翼に進出せよとの大隊命令を受けた。攻撃前進を始めたとたん、中隊は乱戦にまき込まれ、うちの小隊は中隊主力から孤立した。
『城壘』(1990年)
十二月十二日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して第三大隊の援護に向かった。ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。
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