日蓮って? (853レス)
上下前次1-新
671(1): 安倍晋三🏺 12/22(日)09:03 ID:XolLq3k6(1) AAS
>>668
日蓮は仏教をまったく理解できなかったペテン師だという思いが強まりました
672: 12/22(日)09:28 ID:i1/hj6mr(2/3) AAS
>>662 池田さんって人、本山に参拝すると頭を剃って半年の所化にも頭を下げ礼をする。
法主は思う様な、おもてなしをして呉れない。
別室で渋茶を出すだけかよ。
何だこれは!俺がまとめてどれ程のカネをつぎ込んだのを忘れていやがる。
もっと何かないのか!
という様な御心を発したのじゃあるまいか?とケンカ別れをする前の心境を慮る(読み おもんばかる)
そういう苦しい心境を法主は測ったのか知らんが、彼の名前を付けて出版する大著をほぼ容認する。
【御口伝講義】の様な本には少々驚く、この物件てのは僧侶が世に出すのが正解じゃないのか?
一在家の分際で宗旨の口伝を解き明かすのは変じゃな。
それでも不満を解消せず、深い心からの宿命転換を怠る
省1
673: 12/22(日)09:31 ID:yZGDL88u(1) AAS
>>671
座布団一枚
674(2): 12/22(日)10:24 ID:rq2HV52r(1/2) AAS
仏教スレで不生の意味が分からん人がいるのか?
字面だけとらえれば空っぽなんだろうけど、盤珪永琢の意味するところは無明以前だぞ
釈迦が説いたように人間なるものの誕生とは無明の開始であり、12因縁の始まり
つまり、生まれる前って言うのは12因縁の出発点である無明の開始前のこと
無明開始前って言うのは煩悩が発生する前のことで、煩悩と呼ばれる自分を見失う原因が全て取っ払われている状態
それは表現を変えれば、生まれる前の子宮に包まれている胎児みたいなもんだ
我々仏の生命は全て同一であり永遠不滅
例えるならばそれは母胎と統合されている状態であり、父母未生以前本来の面目である自分しか知らない
なぜなら仏教的には生まれること=無明であり幻想なんだから
というか、分離経験がないから分別を知らず母胎と統合されているという感覚さえない
省2
675(1): 12/22(日)10:28 ID:rq2HV52r(2/2) AAS
区分を知らなければ全一とは何かを理解できない
分離を知らなければ無制限の愛という感覚を覚えることは出来ない
なので、生まれることと未生は必ずセット
生まれなければ生まれないという状態を理解することは出来ない
生まれることとは、分離や区分の煩悩世界で生き抜かなければいけない人生に放り出されること
その放出された分離の帝国での過酷なサバイバルゆえに、人間は自分の生まれる前の父母未生以前本来の面目を忘れてしまう
この未生と誕生とは、悟りと無明はセットと同じこと
悟っていない経験をしなければ、悟りという状態がどのようなものか知ることは出来ない
父母未生以前本来の面目を思い出し取り戻すことが無明以前への復帰であり、悟りと同様のこと
まぁ、生きようが死のうが、何をせずとも、人間はずっと父母未生以前のままであり、ただ、それを忘れるということがあるだけなんだけどね
省1
676(1): 12/22(日)10:44 ID:i1/hj6mr(3/3) AAS
AA省
677(1): 12/22(日)17:53 ID:xb0Bot6M(1/4) AAS
>>674
「立正安国論」と私 上原 專禄
外部リンク[htm]:kawasumi.html.xdomain.jp
普通いわれている言葉によると、釈迦自身が四諦十三因縁の法を体得して、
八正道の実践を通して仏陀になった、後輩たるわれわれも及ばずながら釈迦を師正として、
その実践のあとを実行していく、そのなかに仏道修行があリ、悟りがあるというように説かれていると思うのです。
そういう悟りは、なによりも原始仏教のなかではとくに精神的なもの、
内面的なものと考えられていると同時に、悟りというものは、じつに一人一人の悟りであって、
四諦十二因縁の法を悟る、あるいは八正道を実践するその主体は、個人であると考えらていた。
いってみれば個別主義的、理知主義的な世界認識、
省12
678: 12/22(日)17:59 ID:xb0Bot6M(2/4) AAS
日蓮はなにを強調したか
それでは、一切衆生を救うところの、菩薩道を中心とした大乗仏教へと発展していくにはどうすベきか。
この問題は古代インドにもあったわけで、そういう問題とかかわって、
日本に輸入され伝わって来た仏教のなかにも、悟りとはどういうことかという問題が、やはりあったと偲う。
禅宗の悟り、律宗の悟り、そういうものは、個別主義的なインテリの悟りには十分なり得るだろうが、
苦の世界に沈湎している大衆を全体として救う方法ではないのではないか。
こういう問題が鎌倉仏教の場合の問題である。法然や親鸞という方々の考え方のなかにもそれが強いので、
日蓮とは違った仕方で、救われなければならないはずの大衆を
、仏教において救うのにはどうしたらよいのか、という問題があったわけです。
それに対し法然的、親鸞的解決の方法と日蓮的解決の方法とがあったと見なければならないのですが、
省13
679(1): 674 12/22(日)18:00 ID:nAeX7Fcm(1/5) AAS
>>677
意見や反論があるなら、文意に沿って自分の言葉で語ってくれよ
やみくもに他者の文章をコピペするだけでは何が言いたいか分からんぞ
680(1): 12/22(日)18:21 ID:xb0Bot6M(3/4) AAS
>>679
それは、釈迦の説いた教えの段階は、あくまで個別主義的な個人の悟りであって、
さらには出家主義による世俗から完全に切り離された少数者の道だった
家族の縁を切り出家できない世俗で生きるしかない民衆(衆生)を
どうすればいいかという問題が、釈迦入滅後、300年後の上座部と大衆部の根本分裂であり
日本の場合、為政者、貴族階級の所有物であった仏教を
大衆にどう根ずかせるか、仏との縁を結ばせるかが、鎌倉新仏教の問題だった。
だから「もう一度探す旅」などというのは、個別的に個々にやっればいい
そんなものは、あくまで主観的な個人の悟りでしかないのだから。
681: 12/22(日)19:36 ID:nAeX7Fcm(2/5) AAS
>>680
なんか、悟りというものを極めて狭く捉えていない?
つーか、悟りというのはそんな大袈裟なもんではなくて人間の本質そのもの
あるいは人間というよりも、生命の本質そのもの
生命は元々分離もなければゆえに個別性もない
ただ無境界の生命というのがあるばかり
それは空とか陰陽が分裂する前のタオとか全一なるブラフマンとかハイデガーの現存在とか唯一存在のヤハウェみたいなもん
じゃあ、なんでそんな全一生命なる状態に人間などという個別存在が誕生するかと言ったら、それは全一存在の願望
全一存在は全一存在のままでは個別や多様性を経験できない
空っていうのはそれゆえに、自分の内なる無限の可能性を表出表現したい願望に駆られて、複数の自分の分身を色即是空でいえば色として生み出しているわけ
省4
682: 12/22(日)19:38 ID:nAeX7Fcm(3/5) AAS
これらの状況を表現し直すならば、神や仏や空などと称される全一なるものは、自分の全一なる生命を見かけ上分割して、自分の分身を生み出し、その自分の分身に自分発見の旅をやらせているというか、やっているわけ
神や仏は、自分の分身である人間を使って、空という無限の可能性体における、そこで体現しうる無限のあらゆる表現というものを、人間が築く人生を通じて、人間に与えた五蘊という感覚機能を通じて自分のものとしているわけ
言ってしまえば、人間というものは神や仏の目であり手であり足であり神や仏の観測機関であり、神や仏そのものなわけ
ただ、神や仏は自分の分身が自分とそっくりそのままでいると、個別性や多様性を生み出せないから、無明という忘却装置を使って人間に自分は神や仏であることを忘れさせる
この無明装置は、故意やいじめでやっているのではなくて、神や仏とその分身は合意の元に行っている
それは肉体を離れれば分かるというか、魂レベルではどんな悲惨なことであろうが合意以外で行われることはなにもない
それは幽体離脱するなり臨死体験すれば分かるというか、仏教の阿弥陀仏として表現されるものは人間のアートマンやハイヤーセルフと呼ばれているもので、極楽浄土と呼ばれるのは魂次元の場所のことあり、そこにいけば魂の上位存在である阿弥陀仏があらゆる人生は縁起の元に全てが完璧に合意の元に行われていることを教えてくれる
683: 12/22(日)19:43 ID:nAeX7Fcm(4/5) AAS
これは一種の悟りだわな
全ての生命は完璧であり、分離しているように見える生命は全て繋がっていて、それらは全て縁起の連関の元に、見かけ上はどんなに悲惨に見えても合意という完璧性で成り立っていることを理解するんだから
だからこれは旅にならざるを得ないんだよ
全一なるものが、自分の分身に個別という使命を預けて、多様性という世界の旅をさせる
これは、ハイデガーが人間存在のことを世界内存在と例えるように、あるいは西田幾多郎が絶対無が自己の中に自己を限定すると表現したように、神や仏が自分の内で、完全な安全なる神や仏の加護の元に、自分の分身に旅をさせる
それは死に象徴されるように、生老病死に束縛された悲惨な旅だ
なぜそうなるかと言ったら、鈴木大拙の即非の論理で例えられるように、生というのは死があって存在できる、若さというのは老いがあって存在できる、健康というのは病があって存在できる
あらゆる何らかの表現は、その表現の否定系がなければ意味をなしたり存在できない
なので、人間は生老病死を困難とみなしますが、実際のところは生老病死があるから、若さがあり、健康があり、生がある
これを理解することも悟りの一つですね
省3
684(1): 12/22(日)19:43 ID:nAeX7Fcm(5/5) AAS
この神や仏からの分離の旅は、いつでも本人の自由に終わらせることができる
何故ならば、私達は常に今ここに、神や仏の内にいるままで、実際は神や仏から離れたことなど一度もないんだから
言い換えれば、この旅は夢と例えることもできる
極めてリアルに感じられるバーチャルな夢
神や仏が、空なる無限の夢にあらゆる生命の営みという夢を現出させている
夢の中にはいい夢もあれば悪夢もある
それは双方、即非の論理の元に神や仏の無限の可能性を現出させるためには切り離せない完璧性
この完璧性を分からなければ悪夢にうなされ続けて夢から覚めることができない
夢から覚めたければ、宗教などに頼らずとも、覚者が表現してきたようにあるがままに委ねるなどの自己放棄を行えば、あなたはその夢を現出せしめていた当体を発見し、夢に支配されるのではなく、夢の旅は終わって夢を司るものとなる
685: 12/22(日)21:04 ID:xb0Bot6M(4/4) AAS
>>684
だからそんなことは、個人的な主観の悟りでしかない
そんな、個人的感想文など長々と書いても誰も読まない
独善的自称「悟り」語りは、別スレでやれ
そんな悟り語りを長々と書く当たり、釈迦の言う迷妄以外ななにものでもない
長文自分語りをエラソーに語るあたり「我利我欲」に支配された煩悩の産物
観念的な自分悟りをあーでもない、こーでもないと脳内の中で、ぐるぐると回転する。
仏法でいう、典型的「ひとり悟り」またの名を観念的マスターベイション
本人も最後に自白しているように「夢の旅」自分の脳内の夢でしかない
686: 12/23(月)10:23 ID:yuM5wTa6(1) AAS
富士山は古来から大日蓮華山と云われていました。
最澄の『神道深秘抄』には「駿河の国には大日蓮華山」と書かれています。
大日とは大日如来を表します。
富士山頂にはの八つの峰があり、それが釈迦牟尼世尊の座る八葉蓮華に似ている
事から蓮華の名がついています。
その中には大日岳と呼ばれる峰があります。
この名称から分かる事は
「大日」「日蓮」と繋がる事から大日如来=日蓮と考える事が出来るでしょう。
687: 12/23(月)12:51 ID:DPMt2dLQ(1) AAS
さて、「南無大師遍照金剛」とはどう言う意味なのでしょうか?
「南無」とは帰命する、帰依すると言う意味を持ちます。
元々は古代インドの言葉であったサンスクリット語の「ナーモ」の音を中国にて漢字で表現したものです。
「大師遍照金剛」はお大師様の灌頂名であり大日如来の別名と言われております。
南無大師遍照金剛を唱えると、その声を弘法大師が聞きつけてその者を守護すると言われております。
688: 12/23(月)13:21 ID:94hJIOg0(1/2) AAS
酸素分子は目に見えませんが、それが存在しないと人間は生きる事が出来ません。
電磁波は目に見えませんが、それが存在しているからこそ便利な世の中になっているのです。
同じ様に大日如来の存在は直接人間の感覚では捉える事が出来ませんが確かに存在するのです。
689: 12/23(月)13:25 ID:94hJIOg0(2/2) AAS
有史以前から太陽は崇拝の対象となっていました。
太陽の光と熱が我々生命の維持に欠かせないものだからです。
様々な宗教に太陽神が描かれていますが、それを仏教に取り入れたのが、そう、大日如来なのです。
690: 12/23(月)13:43 ID:tU0GlxRW(1) AAS
>>676 の付記
不生死の境とは、人生がプラスマイナスゼロに到れる心境を指します。
此処に到ると罪穢れは一切、忘れ去られる段、荷物が軽くなって足取り軽く
此処から仏への道が始まります、登山道中なら五合目付近、八、九合目から山頂を望む。
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