日蓮ってver.74 (192レス)
1-

128: 12/09(月)13:19 ID:kV9hOi3D(1) AAS
>>127 日蓮氏曰く、もう俺はね,勧請されても行かないよ。
 そんな資格はないからねぇ、ボサツ の ツくらいしか値が無い、
 かの池田氏は,ツでもオサツをクジラに食わせる程持ってた立派な人なり。
129: 12/09(月)19:47 ID:+xwFMIbU(1) AAS
南無久遠実成本師釈迦牟尼仏
南無平等大慧一乗妙法蓮華経
南無本化上行高祖日蓮大菩薩
130: 12/10(火)10:25 ID:Srxp9MSY(1/2) AAS
元日蓮信者の人たちは、辞めて何年も、何十年もたっているのに
まだ教団の悪口や、日蓮がどうのこうの、日蓮遺文がどうのとやり続けている
つまり退会しようがなんだろうが「変われない」ようである
その意味では信者たちととても似ている
元信者は、現信者と非常に酷似している
つまり同じ穴のムジナである
元信者が現信者をどれほど批判しようが、下に見ようが、
結局は同レベル
これが日蓮教義の害毒の恐ろしさなのだろう
日蓮教義と教団教義から洗脳された価値観そのものから脱却することに成功した人だけが
省1
131: 12/10(火)10:47 ID:Srxp9MSY(2/2) AAS
どんなに美化しても、どんなに糊塗しても
脱会信者を叩く日蓮信者の言動は醜悪だ
現役信者を叩く脱会信者の言動も醜悪だ
どこにも「正義」など無い
ただただ「愚かさ」と「醜悪さ」しか感じさせない
悲しい存在だ
自分より優れた存在は理解できずに
腐し、叩き続ける人生
わびしい人生
誰も関わりたくない人たちである
132
(1): 12/10(火)10:53 ID:ysNXbe5D(1/2) AAS
【相応部経典12-5】
「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」
「カッチャーシャよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。
カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。また、カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依拠に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我(が)なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。これは一つの極端である。また、<すべては無である>という。これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中(ちゅう)によって法を説くのである。

【中論一五章】
七 カーティヤーヤナに教える【経】において、「有り」と「無し」という両者が、有に無とを説き給う尊師によって論破せられた。

八 もしも本性上、或るものが有であるならば、そのものが無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである。
省3
133: 12/10(火)10:57 ID:ysNXbe5D(2/2) AAS
生まれたものどもは、死を逃れる道がない。
老いに達しては、死ぬ。
実に生あるものどもの定めは、このとおりである
(スッタニパータ)
134: 12/11(水)12:54 ID:g93NQuzJ(1) AAS
>>132有無の論ですが、肝心なのは人間の煩悩と輪廻転生が止むかどうか?
への答えなのです。
有ならば止まない、無なのかと問われると厳然と機能する。
其れが空であると説かれたのがお釈迦さん。
135: 12/11(水)22:18 ID:uj5AXb4G(1/6) AAS
《創価学会に激震》原田会長に“池田大作の愛弟子”が反旗! 元幹部職員が初めて語った「糾弾文書」の真意
外部リンク:bunshun.jp

池田大作名誉会長の死去から間もなく1年を迎える創価学会に、激震が走っている。
元エリート幹部職員の須田晴夫氏(72)が自身のホームページ上で、
原田稔会長の“教義改変”を糾弾する文書を公開したのだ。
今回、須田氏が「週刊文春」の取材に応じ、初めてその真意を明かした。
136: 12/11(水)22:19 ID:uj5AXb4G(2/6) AAS
須田晴夫(創価学会員)「『創価学会教学要綱』の考察 創価学会教学変更批判

『教学要綱』では日蓮大聖人について、最後まで「上行菩薩としての役割を果たす立場である」(同書四三頁)として
「日蓮=上行菩薩」との認識を貫いていますが、
大聖人を釈迦仏から末法弘通の役割を託された
「釈迦仏の使い」であるとする認識は身延派の教義そのものです。

これまで創価学会は、大聖人が上行菩薩であるというのはあくまでも外用の姿であり、
大聖人の内証は久遠元初自受用報身如来であるとしてきましたが(二〇一五年創価学会教学部編『教学入門』一七一頁)、
『教学要綱』は「久遠元初自受用身」の用語を一切用いず、
従来の立場からすれば専ら外用の位置づけにとどまっております。
もちろん『教学要綱』も大聖人について「末法の御本仏」としていますが、
省11
137: 12/11(水)22:20 ID:uj5AXb4G(3/6) AAS
男子部教学室論考 的外れな“批判本”を破す(創価学会)、須田晴夫批判と反論
外部リンク:www.seikyoonline.com

「御書根本」に学会教学は伸展
“批判本”は誤読を土台、閉鎖的宗門教学に固執
 このほど、須田晴夫氏が『創価学会教学要綱』(以下『教学要綱』)を論じる本を自費出版した。
  
その主な内容は、“『教学要綱』は日蓮を「釈迦仏の使い」と位置づけ、その下位に置いている”という批判である。
  
『教学要綱』では、あくまで御書に基づき、「大聖人は、自身を『如来の使い』
『教主釈尊の御使い』と位置づけ」(『教学要綱』45ページ)て、
省19
138: 12/11(水)22:20 ID:uj5AXb4G(4/6) AAS
また、氏は、『教学要綱』には「人法一箇」「久遠元初自受用身」といった用語が用いられていないと指摘するが、
これらについて、学会教学では、宗門教学で用いるような大聖人を神格化・神秘化する用語としてではなく、
実践に即したより深い意義を掘り下げてきた。そのうえで、
これらの用語を用いなければ大聖人の仏法を説明できないものではないことから、『教学要綱』では用いられていないのである。
  
 氏は、大聖人を根源仏とする論拠として、「百六箇抄」「本因妙抄」などの相伝書を引用するが、
これらの相伝書が宗門の法主信仰の温床となってきたことは事実である。また、
宗内でしか通用しない相伝書に依拠するのでは、普遍的な説明にはならない。
  
 『教学要綱』では、論拠とする御書は、日蓮仏法の骨格というべき十大部を中心としている。
省5
139: 12/11(水)22:21 ID:uj5AXb4G(5/6) AAS
また、氏は『教学要綱』は法宝と僧宝の内容を変更しているとしているが、そのような指摘は当たらない。
  
これまでの学会教学では、法宝について、「南無妙法蓮華経」と「南無妙法蓮華経の本尊」の二つの側面から説明してきた。
そのうえで、『教学要綱』では、「法宝とは、仏が覚知した根本の法と、
仏がそれに基づいて説いた教え」という仏教本来の定義のうえから、
「大聖人が覚知し説き示された一大秘法の『南無妙法蓮華経』」としたものである。
大聖人が覚知された根本の法(法宝)は一大秘法の南無妙法蓮華経であり、
それを「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」の三大秘法として具現化されたのである。
  
また、「僧宝」について、『教学要綱』は、あくまで「僧宝とは仏宝と法宝を伝える教団(サンガ)のこと」、
省4
140: 12/11(水)22:21 ID:uj5AXb4G(6/6) AAS
帰依三宝(きえさんぽう)

日蓮宗

仏宝、釈尊
法宝、法華経(南無妙法蓮華経)
僧宝、日蓮

日蓮正宗

仏宝、日蓮
法宝、戒壇の本尊
僧宝、日興
省4
141: 12/12(木)05:01 ID:Ti0G8jWK(1) AAS
本尊問答抄
問うて云く日本国に十宗あり所謂・倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗なり、
此の宗は皆本尊まちまちなり所謂・倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり、
法相三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす華厳宗は台上のるさな報身の釈迦如来、
真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用いたり、
何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、
答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、
問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、
答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、
例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし
省5
142: 12/12(木)05:53 ID:SxWnAmnF(1) AAS
南無久遠実成本師釈迦牟尼仏
南無平等大慧一乗妙法蓮華経
南無本化上行高祖日蓮大菩薩
143: 12/12(木)06:21 ID:AOdkegk5(1) AAS
画像リンク[png]:i.imgur.com
144
(1): 12/12(木)10:01 ID:EaM0srbn(1) AAS
法華経の漢訳者と訳した年代は
「正法華経」  竺法護訳 268年
「妙法蓮華経」 鳩摩羅什訳 406年
「添品妙法蓮華経」 闍那崛多、達摩笈多訳 601年
となっている。
サンスクリット本はシルクロード系列とネパール系列(チベット系列)があるが
ここで断片的な最古のものでもシルクロード系列の7世紀頃となっており、
漢訳よりサンスクリット本の方が新しい。
当然、その数百年の間に原本となるものが改変されているだろうし、シルクロード本とネパール本を比べるのも、無理がある。
なので現時点で得られているサンスクリット本と漢訳本を比べて翻訳を間違えているとか
省1
145: 12/12(木)19:59 ID:LO3y1kPp(1) AAS
>>144
法華経のサンスクリット語の日本語訳本はネパール系列(チベット本)を元に書かれている。
それはネパール系列は28品揃っているから。
河口慧海が持ち帰ったのもネパール系列。
「正法華経」や「妙法蓮華経」の底本は西北インドからシルクロード経由で中国に入った
と考えられるのでシルクロード系列(中央アジア本)。
なので訳本同士を比較評価できない。
146
(3): 12/13(金)06:21 ID:9qGv8AIR(1/4) AAS
>>145 もう少し根本に立ち返ると、大乗経は釈尊の説ではないわけで
何処の誰かすらも判らない”無名の仏教学者”が著わす偽経である。
勝手に借用する如是我聞という四文字に騙された、素直な坊さんが多々。
それが露見した現代に食い違いを伏せたままで教学、教材を構築する故、
奇妙な現象をママ見るわけだ。
聖徳太子からして騙されたと看做すのも可能。
因みに、経題名サンスクリットはサツダルマ=正法としか訳せない筈なのである。
サツの字はボディサットバのサツ字。
八正道のサツ字に相当する。
正と訳すなら、この語を用いる漢訳文は意が通じる、妙では駄目出しなのだ。
省3
147: 12/13(金)07:12 ID:9qGv8AIR(2/4) AAS
146の付記
この内容は、佛教大学で学んだ坊さん方は全員後存じの話題、
何を今更と言われる程のもの。
但し、坊さんは基本の戒律を守る故、他の悪口は言わない。
其の為、貴方が疑問に思って尋ねてもお答えされるとは思われない。
黙り込んだら、認めるモノと推測されるが宜しい、お分かりか?
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