[過去ログ] 【薔薇模様の壁紙】松田聖子 30【窓辺にカナリア】 (1001レス)
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1: 2013/11/19(火)21:18 ID:ouuEU/My(1) AAS
ここは、主に80年代における松田聖子さんの活躍を語る懐古派用ファンスレです。

↓最新の聖子さんの話題は本スレにてどうぞ♪
【夢がさめて】松田聖子63【絶賛発売中!】
2chスレ:musicjf

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省4
2: 2013/11/19(火)21:27 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第一回より

新進の作曲家・小田裕一郎は、サーカスに提供した「アメリカン・フィーリング」で注目を浴びていた。
小田は、聖子のデビュー曲「裸足の季節」から「青い珊瑚礁」「風は秋色」のシングル3部作を手がけ、
アルバムも3作続けてプロデュースしている。

聖子が他のアイドルを一線を画す理由に「アルバムの完成度」が挙げられる。
ボツになった曲を集めたものがLPという慣例に逆らい、
組曲のように明確なテーマを持ったアルバム作りに終始した。

小田はボーカルレッスンをつけながら、聖子に合う曲を模索する。
「高音部が豊かな声量できちんと出るのはもちろん、低音部の発声も素晴らしかった。
低いパートって、ともすれば宝塚歌劇のような仰々しい歌い方になったりするけど、
省17
3: 2013/11/19(火)21:30 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第一回より

80年8月14日、TBSの人気番組「ザ・ベストテン」で、聖子の「青い珊瑚礁」が待望のランクインを果たす。
デビュー曲「裸足の季節」は注目曲を紹介する「スポットライト」には登場したが10位以内には届いていなかった。

実は聖子の登場まで、久米宏を筆頭とした「ザ・ベストテン」のクルーは、
山口百恵に認められたくて精力を傾けていたという。
「今夜の演出は素敵でしたわ」「来週はどうなるか楽しみです」
そんな”女神”の座も、百恵の引退に合わせて聖子に禅譲される。
放送が終わるとサブ(副調整室)を必ず訪れ、きちんとお礼を述べてから帰途につく。
1人、また1人と聖子の演出を希望するスタッフが増えていったという。

のちに「クリスマス・イヴ」や「ホームワーク」など、TBSの名作ドラマをいつくもプロデュースする遠藤環は、
省12
4: 2013/11/19(火)21:35 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より

作曲家の平尾昌晃が初めて聖子と会ったのは79年のことだった。
聖子、いや本名の「蒲池法子」は久留米市から歌手になるため
平尾が主催する音楽学院の福岡校に通っていた。

平尾は当時、福岡にライブハウスを開いた関係で、月に一度はレッスンを見る機会があった。
そこに誰よりも早く来て、誰よりも遅くまでレッスンを受けていたのが聖子だったという
「僕の好きな西田佐知子やちあきなおみにも似た、ビロードがかかった声の艶があった。
当時の発声は荒っぽいけど、中高音の伸びは圧倒的だったね」
とにかく、人懐っこい性格と、歌手になる夢を父親に認めさせる固い意志が印象的だった。

そんな79年当時、街にはインベーダーゲームの嵐が吹き荒れていた。
省14
5: 2013/11/19(火)21:37 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より

「すごい声だね。これ、マイクいらんわ」
ソニーのスタジオにエンジニアの鈴木智雄の声が響く。
笑い話のようであるが、それほど聖子の声量には誰もがうなった。

同じ場に居合わせた作詞家の三浦徳子は、デビューから5曲続けて聖子のシングルを手がける。
初めて会った聖子は17歳で、例えるなら「14歳当時の浅田真央」のようだった。
清潔で天真爛漫、そして色白で頬だけ桜色をしていたのが印象的だった。
その姿に三浦は、作詞における聖子の基本カラーを「薄いピンク」にしようと決めた。
たとえば2曲目の「青い珊瑚礁」には「渚は恋のモスグリーン」という一節があるが、
これなどは聖子カラーのピンクを引き立たせる「補色」の効果を狙った。
省7
6: 2013/11/19(火)21:42 ID:??? AAS
何故「渚がモスグリーン」か分からんかったが、
補色だったんだね。
30年経ってやっと理解できた…

(でも、何故補色???)
7: 2013/11/19(火)21:42 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第二回より

それは作詞家だけでなく、作曲家の小田裕一郎も全精力を聖子に傾けた1人だ。
それが「裸足の季節」である。
単なる「アイドル歌謡」に終わらないよう、
サンバやサルサのリズムを取り入れ、珍しい打楽器もいくつか使った。
「あの曲は2番の終わりから再びサビが来るまでの間奏が24小節もある。
普通は8小節くらいだけど、それが新しさだとこだわった」

このデビュー曲だけでなく、聖子のレコーディングのほとんどが「一発録り」に近かった。
何ら手直しすることなく、また別々に録音したものをつなぎ合わせる必要も皆無だった。

聖子のデビュー曲は、CMでは歌声のみだったが、全国に「顔」を売る機会が訪れた。
省14
8: 2013/11/19(火)21:45 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第三回より

松田聖子がデビューした年、
空前のアイドルブームを築いたことから「黄金の80年組」と呼ばれた。

岩崎良美もその1人であり、堀越学園高校でも机を並べた友人である。
同じクラス、同期デビュー、同時期に「資生堂」のCMソング、
それから歌手の前にドラマでお披露目など2人には共通点が多い。
唯一、違うとしたら良美は「岩崎宏美の妹」であったことだが、
聖子はそれを口にすることなく良美と親しくなった。

「気さくで人懐っこくて、とにかく可愛くて楽しい子。
会った皆が好きになっちゃう感じでした」
省6
9: 2013/11/19(火)21:49 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第三回より

松村和子は80年4月「帰ってこいよ」でデビューする。
聖子とは生年月日で13日違いであり、「黄金の80年組」として新人賞を争う。

松村は、30年前の日々を思い返す
「同期の皆が良かったから相乗効果で頑張れたなって思いますね。
当時は親衛隊の声援の声援もすごくて『聖子〜!』『良美〜!てなるのに、
私のときは『・・・』だったからちょっと寂しい思いも味わいましたけど」

楽屋で見る聖子はイメージと違ってキャピキャピした部分がまったくなかった。
自分を客観視できる人だと思った。

そして大晦日の天王山、「日本レコード大賞」で雌雄を決する。
省11
10: 2013/11/19(火)21:51 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第5回より

そんな聖子から依頼を受けた人物がもう一人いる。
77年に「てぃーんずぶるーす」でデビューした原田真二である。

「僕がNKHの番組に出たのを偶然見ていらして、
事務所から楽曲プロデュースとコンサート制作の依頼をされたんです。
失礼ながら歌謡曲の世界の方、って認識だったんですよ。
ところが、アメリカでのアルバム発売等を経て、
セルフプロデュースの実績に驚かされました」

以来、4年にわたって聖子と原田のコンビが実現することになる。
誰もが口にすることだが、やはり聖子の「天が授けた声の質」には原田も驚嘆する。
省6
11: 2013/11/19(火)21:54 ID:??? AAS
アサヒ芸能 2010年の連載「松田聖子を創った男たち」第5回より

ただし、2人のコンビネーションには別の関心も寄せられた。
女性誌を中心とした、2人の仲を取り沙汰する報道の量である。

たとえば、数人のスタッフを交えて海外のミーティングをする。
そこに居合わせた観光客が原田と聖子だけを狙って写真を撮り、
あたかも密会のように仕立て上げる。
聖子の仕事に対する姿勢を知る原田には、
歪んだ形で記事になることが許せなかった。

「かといって、噂が出たらプロデュースを降りるというのもおかしい。
契約の期間はきっちりと務めようと思いました」
省12
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