[過去ログ] 【竹島問題】産経新聞の電子版を曲解した韓国の竹島研究の現状 聯合ニュースは訂正記事を載せ、読者の誤解を解くべき(実事求是)[08/31] (38レス)
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(1): はるさめ前線φ ★ 2010/08/31(火)21:04 ID:??? AAS
>>1の続き)
その点で、今回の産経新聞の報道は、竹島問題を研究する上で、大きなヒントを与えたことになるのである。
本来、于山島と表記されるべきところ、「子山」と記された「八道之図」の存在が確認されたことで、
安龍福が「松島は即ち子山島」と供述した理由が説明できるからだ。そのため「子山」と表記した
古地図の発見は、安龍福が「子山島」と供述したことを理由に、欝陵島を母島とし独島(竹島)を
「子の島」とする韓国側の主張にも、再考を迫るものとなった。于山島を「子山」と表記した
「江原道図」が存在することで、欝陵島と竹島を母子関係とする根拠が、崩れたからである。

この事実に対し、保坂氏は何もコメントしていないが、それは于山島を「子山」と表記した
「江原道図」の存在がどのような意味を持つのか、「韓国の実状をよく知らない」からであろう。
今回、産経新聞が取り上げた「江原道図」は、『東国輿地勝覧』所収の「江原道図」の系列を引くもので、
欝陵島と于山島に対する地理的認識は十分ではなかった。

その『東国輿地勝覧』に記載された「于山島」の位置が明確となるのは、1693年の安龍福による
欝陵島での密漁事件以後で、于山島は欝陵島の東約2 キロのチクトウ(竹嶼)のこととされたからである。
その嚆矢と言えるのは、1711年の三陟営将朴錫昌による『欝陵島図形』である。そこではチクトウに
「所謂于山島」と表記され、その後、『海東地図』、『廣輿図』、『輿地図』、『八道輿地図』、『地乗』等にも
踏襲されている。

それを保坂氏は、『東国輿地勝覧』に由来する「江原道図」に、子山島とあるとそれを無批判に
竹島のことと決め付けたが、18世紀、于山島はすでに欝陵島の東約2キロに位置するチクトウのことと
されていたのである。確かに保坂氏の言うように、「当時は、絵地図のため方向や距離が不正確で」
あったかもしれないが、欝陵島に対する地理的認識は『欝陵島図形』の系統によって確立していたのである。
それは1693年の安龍福による欝陵島での密漁事件を機に、朝鮮では三年に一回、捜討使を欝陵島に
派遣することになり、その際、捜討使が提出した『欝陵島図形』の中には、所在が明らかでなかった
于山島が「所謂于山島」として、明示されることになったからである。

鳥取藩に密航した安龍福は、于山島を「子山」と表記した「江原道図」を基に「松島は即ち子山島」と
供述したが、朝鮮では安龍福の密航事件を契機に、欝陵島の東2キロにあるチクトウを「所謂于山島」とし、
その地理的認識は近代にまで及んだのである。

それを保坂氏は、『東国輿地勝覧』所収の「江原道図」に由来する子山島を独島と決め付け、
「朝鮮が、独島を江原道に属す自国の領土と認識していたという、他の根拠として解釈ができる」とするが、
それは「韓国の実状をよく知らない」者の牽強付会の説である。

安龍福が「松島は即ち子山島」と供述して以後、朝鮮半島には、チクトウを「所謂于山島」とする
『欝陵島図形』の系統と、『東国輿地勝覧』から続く、もう一つの系統が並存することになった。
その内、『東国輿地勝覧』に由来する于山島像は、『欝陵島図形』によって修正を余儀なくされ、
その史料的価値を失ったのである。産経新聞の記事を歪曲して報じた聯合ニュースは、
訂正記事を載せ、読者の誤解を解くべきである。
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