[過去ログ] 被差別部落にまつわる怖い話 27 (1002レス)
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80: (ワッチョイ 9fb8-T3WU) 2018/02/15(木)22:22 ID:42qA6+Vo0(1) AAS
大火事の後に勝手に住み着くようなもんで、
大水で家が流された後にも住み着くのかもね。
81(1): (ワッチョイW 97b8-ADQt) 2018/02/15(木)23:01 ID:K+VL09Xt0(1) AAS
>>79
犯罪者を取り締まるというのはわかる。
非人身分の者が罰として村の番をしてるわけではなくて、
犯罪者や泥棒、非人が来ないように村を警備する人のことを
非人番というのではないのか?
犯罪者の前科者が村の警備って変な話。
82: (ワッチョイ 9f8f-MriG) 2018/02/15(木)23:10 ID:UxzrEQrB0(2/2) AAS
村のために働く善人だと、中央省庁から見て扱いづらいからだろ
村を売り飛ばすような薄情な奴 鼻つまみ者の方が都合がいい
遊牧民型の統治は常に平民を仮想敵として見るからね
代理人として送り込む奴は、村の利益を損なうようなのを使う
83: (ワッチョイ f7b8-3X9e) 2018/02/15(木)23:38 ID:Lf+nhyZW0(7/7) AAS
大坂の非人
外部リンク[html]:blog.livedoor.jp
非人たちは、17世紀の頃までは「乞食」として市中の家々を「勧進」して回っていたが、
その中で特定の家や地域との関係が強くなってきた。
一方で、与える側の町人たちの「志」の範囲を超えるねだり行為(悪ねだり)も行われるようになってくる
(子どもの宮参りを取り囲んで祝儀をねだるといったことも行われたらしい(136p)。
こうした悪ねだりの取り締まりのために、関係の深い垣外のメンバーが垣外番として抱えられていく。
そしてその権利は「垣外番株」として相続されていくことになる。
「乞食を取り締まる仕事が乞食に任され、それが権利化して家督になっていく」ということが起こっているのです。
なにか変な話ですが、非常に江戸時代の特徴を表しているような話でもあります。
省12
84: (ワッチョイ 9f8f-MriG) 2018/02/16(金)00:05 ID:OxhjLusz0(1/3) AAS
非人乞食自体を無くせば、そういう「悪ねだり」も無くなるだろ
ってのは必ず出てくる議論だが
乞食が居なくなると困るのが、他でもない中央省庁
思想警察の下請け 権力の尖兵として乞食を使ってたわけだな
それの現代版が創価なんかの胡散臭い団体。
85(1): (ワッチョイ 9f8f-MriG) 2018/02/16(金)00:36 ID:OxhjLusz0(2/3) AAS
遊牧民型の中央集権体制つうのは
その手の浮浪者 非人乞食が必須である体制
意図的に「あぶれ者」が出てくる社会構造にして、そいつを鉄砲玉 サクラ 密告者等
中央権力の尖兵として使うわけだな
これが「分断統治」の具体的手法。
86: (ワッチョイWW 9fb8-KAOn) 2018/02/16(金)00:48 ID:4RA3sSiE0(1/6) AAS
>>81
京都の洛中の場合は、町の入り口に木戸があって、その木戸番が悲田院から派遣された非人だった。
木戸は外からの侵入を防ぐだけでなく、中の人を外に出さない目的もあるので、町が雇った人ではダメだった。
非人と言っても野非人(のひにん)と抱非人があり、抱非人にはちゃんとした生業があった。木戸番も非人の生業のひとつ。
87: (ワッチョイWW 9fb8-KAOn) 2018/02/16(金)00:53 ID:4RA3sSiE0(2/6) AAS
>>85
分断は素人(商家、農家など)と被差別民の間だけでなく、被差別民の間も分断というか敵対するように仕向けられていた。
京都ではエタ地区と非人地区を隣接して配置し仲が悪くなるようにしていた。
88(1): (ワッチョイ d7ab-VevL) 2018/02/16(金)01:16 ID:WARzON4P0(1/2) AAS
富山県には『藤内』というエタが平民を取り締まったり
刑吏(警察の下働き)ってのをやってたが、基本エタってのは
死牛馬の解体やそれに伴う皮革作業が主で、あと死体の処理、し尿運びとか穢らわしい仕事をするのがエタだよ
西日本では解放運動が盛んだったため、「おらも部落だー 差別されただー」と喚き散らしあちこちで同和認定され
かえってエタ村があからさまになったのに対し、東日本では隠したい人たちが多く地元の人以外は知らない
しかし解放同盟が無理やり同和地区を要請し指定を受けた所も多い(迷惑な話だよなw)
解放同盟は死ね!エタ公に餌をやり過ぎた行政も死ね!
89: (ワッチョイWW 9fb8-KAOn) 2018/02/16(金)01:28 ID:4RA3sSiE0(3/6) AAS
>>88
役人村という言い方もありますね。
90: (ワッチョイ f7b8-3X9e) 2018/02/16(金)01:33 ID:X0GQf3RX0(1/10) AAS
加賀藩の賤民身分は藤内、皮多、物吉など、独特の呼称をもち多様である。
藤内は、賤民全体の支配権を有し、城内掃除や牢番・行刑などのほか、
街道警固や領内の見回りが主要な任務とされ、藩全域に配置された。
今日の部落の小規模点在性は、主としてこれによるものである。
一方、加賀藩の皮多は穢多とも称され、もっぱら皮革業務に従事した。
この2つの身分が主要であったことから、今日、藤内系と皮多系の2種の部落に大別できるが、
その系譜や成立過程は一部を除き定かでない。他の身分については不祥。
なお藤内は、今日も部落民を指す賤称として用いられている。
91: (ワッチョイ f7b8-3X9e) 2018/02/16(金)01:33 ID:X0GQf3RX0(2/10) AAS
加賀藩の賤民政策の検討
外部リンク:blog.goo.ne.jp
(1)中世賤民制度の再編
横山論文では「利家は1581年に能登に入部したとき、…宮守の藤内にも土地を与えている。
この時点ですでに中世賤民の近世賤民への再編に着手している。」と書いています。
田中論文では、「前田氏は金沢城に入城すると、藤内・穢多を城下末尾に移し、
…近世初頭すでに賤民身分=部落の成立を図った」と書かれています。
両者とも、賤民身分の存在を前提にした分析で、起源については確たる論及がありません。
(2)新たな部落の設置
1609年、利家は加賀藩の武具・馬具を大量生産するための体制(軍事的)を確立するために、「播磨、木ノ本から皮多を招致」し、
省7
92: (ワッチョイ f7b8-3X9e) 2018/02/16(金)01:34 ID:X0GQf3RX0(3/10) AAS
(3)藤内の警察的配置
藩政初期には、多額の御用金の負担を強いられ、物価が高騰し、農民層が分解し、都市への流入・都市下層民の増大を招き、
金沢、金石、美川、小松などで、米屋や富豪を襲う打ち壊しが起こり藩体制が動揺しました。
1652年、城下に他国者や非人乞食が増大し、取り締まるために藤内頭の下役人として、非人頭を浅野川NJ村領と犀川NK村領に置きました。
また天和年中(1681〜84)に石川郡、河北郡、能美郡にいる藤内に対し、非人取締まりを命じ、1691年には盗賊改め方を命じています。
このように藤内は警察的な職掌を課せられていました。
藩権力は藩社会を守るために、藤内に刑政・警察的な末端支配を担わせることによって、
藤内は従来以上に社会から疎外され、賤視されていったと考えられます。
また、加賀藩の部落の配置を見ると、安政5年(1857)に石川県内で騒動が起きた地域と部落所在地の多くが一致し、
かつ金沢市内と街道筋に集中しており、これは警察的配置と考えられています。
省9
93(2): (ワッチョイ f7b8-3X9e) 2018/02/16(金)01:35 ID:X0GQf3RX0(4/10) AAS
(5)加賀藩の非人政策
1670年代、連年の不作のために、農民が都市に流入し、正業に就けず、無宿者が増大し、非人化(乞食など)していく者が絶えませんでした。
非人が金沢に集中したり、盗賊がはびこったりして、社会秩序が不安定になりました。
加賀藩は盗賊改め方奉行を設置し、藤内に金沢に入ってくる非人を取り締まらせました。(1698年頃、1830年頃も同様)
藤内には、耕作を制限し、村外追放するなど、差別政策を強化しましたが、非人に対しては、
新田開発、百姓分下人として労働させ、帰農希望者には半年分の飯米を支給しています。
これは、非人化した農民を帰農させ、藩財政を立て直す政策です。
このように、賤民(藤内と非人)の間にも差別を設けて支配していました。
94(1): (ワッチョイWW 9fb8-KAOn) 2018/02/16(金)01:42 ID:4RA3sSiE0(4/6) AAS
>>93
加賀藩には野非人しかいなかったの?
悲田院がなかったら抱非人なんて発生しない?
95: (ワッチョイWW 9fb8-KAOn) 2018/02/16(金)01:44 ID:4RA3sSiE0(5/6) AAS
>>93
エタはずっとエタのままだけど、
非人は場合によっては素人に戻れるという例ですね。
96(1): (ワッチョイ f7b8-3X9e) 2018/02/16(金)02:20 ID:X0GQf3RX0(5/10) AAS
>>94
ここに詳しく書いてますな。
外部リンク[pdf]:repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
97: (ワッチョイ f7b8-3X9e) 2018/02/16(金)02:44 ID:X0GQf3RX0(6/10) AAS
「おんぼ」とは「陰坊」であり、加賀藩の賤民の一種、藤内の別名である。
文政七年(一八二四)、藤内頭による各種賤民の縁起に関する上申によれば、
陰坊とは、武家・町方の葬儀に携わる彼らが町家からでた死者を葬る場合に名乗った名称である。
また、藤内に限らず、埋葬に携わる者は広くかく称したともいう(『史料』〔一三〕四五三頁)。
98: (ワッチョイWW 9fb8-KAOn) 2018/02/16(金)03:12 ID:4RA3sSiE0(6/6) AAS
>>96
「救恤」つまり野非人のことしか書いてないね。
99: (ワッチョイ 9f8f-MriG) 2018/02/16(金)06:04 ID:OxhjLusz0(3/3) AAS
学者が事実を言うわけねえし
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