武田信玄は過大評価されすぎ part1 (1000レス)
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: 2015/07/09(木)20:14 ID:???
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408: [] 2015/07/09(木)20:14:04 ID:??? 武田信玄公は人を試みるのに、まず甲州の中での河川改修、普請、その他鷹狩などにおいて、 在郷の山に、竹木大小の有るのをよく覚えられていて、それを知られないよう、人々に尋ねられた。 そして人々の中から詳しく見憶えていて申し上げる者には 「その場所を度々見たのか?それとも私の供をした時だけで見憶えたのか?」 そう重ねて尋ねた。そのような事が幾度も重なった上でも詳しく説明の出来る人物を、信玄公は 他国への検使に遣わし、国境の模様などを観察させた。 或いは、信玄公はくどく物をお尋ねに成り、その人の心を汲み取ろうとするのが常の儀であった。 その様子は、例えば御前衆の親に患いなどあれば、その者に煩いの様子を詳しく尋ね、その者が親に 孝不孝のどういう感情を持っているかを知ろうとされたが、人々はそれを知らないので、 「信玄公の癖で一つのことを何度もお尋ねになる」と話したりしていたが、それは僻事である。 我らも、よくよく思案、工夫して信玄公の儀に至るべきなのだ。 古人に曰く、『金は火を以って試し、人は言葉を以って試す』というではないか 信玄公はこのように試みて、又その上側近くに置いた近習の内、無二無三に御屋形様の御用に立つだろうと 思われる若者を6人選び出し、彼らの発言を聞こうと考えられ、彼らから、諸人、または他国より来た新参衆の 手柄の虚実について聞き、 「或いは、手柄が在っても嘘を常に申す者か、朋輩で良く近づくものに頼もしさの無い者か、 大身衆にばかり慇懃で、諸朋輩に慮外な人間か、酒を過ごして酔狂をするひとか、総じて諸人に 腹を立てぬようにする人か、武具には万事嗜みのない人か、分限にて諸道具をよく嗜んでも、 弓矢に心を入れない武道への心がけのない人か、一切の善悪を言え」 と仰せに成った この6人は、曽根孫次郎、金丸平八郎、三枝勘解由左衛門、真田源五郎、三枝新十郎、曽根与一の助の 事である。この内、金丸平八郎は土屋右衛門と、真田源五郎は武藤喜兵衛と呼ばれていたが、これは 勝頼公の時代、長篠合戦において彼らの兄が討ち死にしたため、その後を継いで名が変わったのである。 真田は、この頃は真田安房守と申している。曽根孫次郎は内匠と称している。 三枝勘解由左衛門は長篠で討ち死にした。 彼らはいずれも、弓矢鍛錬は覚えの武士にも劣らぬ人々であるが、それは信玄公のおそば近くで召し使われ、 よろずその御発言を承り、覚えた故である。 (甲陽軍鑑) http://ikura.open2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1395552860/408
武田信玄公は人を試みるのにまず甲州の中での河川改修普請その他鷹狩などにおいて 在郷の山に竹木大小の有るのをよく覚えられていてそれを知られないよう人に尋ねられた そして人の中から詳しく見憶えていて申し上げる者には その場所を度見たのか?それとも私の供をした時だけで見憶えたのか? そう重ねて尋ねたそのような事が幾度も重なった上でも詳しく説明の出来る人物を信玄公は 他国への検使に遣わし国境の模様などを観察させた 或いは信玄公はくどく物をお尋ねに成りその人の心を汲み取ろうとするのが常の儀であった その様子は例えば御前衆の親に患いなどあればその者に煩いの様子を詳しく尋ねその者が親に 孝不孝のどういう感情を持っているかを知ろうとされたが人はそれを知らないので 信玄公の癖で一つのことを何度もお尋ねになると話したりしていたがそれは僻事である 我らもよくよく思案工夫して信玄公の儀に至るべきなのだ 古人にく金は火を以って試し人は言葉を以って試すというではないか 信玄公はこのように試みて又その上側近くに置いた近習の内無二無三に御屋形様の御用に立つだろうと 思われる若者を人選び出し彼らの発言を聞こうと考えられ彼らから諸人または他国より来た新参衆の 手柄の虚実について聞き 或いは手柄が在っても嘘を常に申す者か朋輩で良く近づくものに頼もしさの無い者か 大身衆にばかりで諸朋輩に慮外な人間か酒を過ごして酔狂をするひとか総じて諸人に 腹を立てぬようにする人か武具には万事みのない人か分限にて諸道具をよくんでも 弓矢に心を入れない武道への心がけのない人か一切の善悪を言え と仰せに成った この人は曽根孫次郎金丸平八郎三枝勘解由左衛門真田源五郎三枝新十郎曽根与一の助の 事であるこの内金丸平八郎は土屋右衛門と真田源五郎は武藤喜兵衛と呼ばれていたがこれは 勝頼公の時代長篠合戦において彼らの兄が討ち死にしたためその後を継いで名が変わったのである 真田はこの頃は真田安房守と申している曽根孫次郎は内匠と称している 三枝勘解由左衛門は長篠で討ち死にした 彼らはいずれも弓矢鍛錬は覚えの武士にも劣らぬ人であるがそれは信玄公のおそば近くで召し使われ よろずその御発言を承り覚えた故である 甲陽軍鑑
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