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初心者のための富士山登山入門129m [無断転載禁止]©2ch.net (335レス)
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1: 底名無し沼さん [] 2017/09/17(日) 22:20:12.28 ID:Q187YIt7 【アフィサイトへの転載禁止】 富士山は、夏の暑さと冬の寒さを一日で体感する過酷な環境です。 >>2〜のテンプレを参考に「余力を残して登頂・余裕を持って下山」でご安全に。 ■ ご覧の皆様へ 登山キャンプ板にはブログ宣伝を行う荒らしや転載アフィ業者が常駐しています。 http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1500267844/1 ■「wi1d28jp」(栗城ハンター)などの悪質アフィは踏まずにNG登録を。 踏んでしまった人は関連cookieを残らず削除し、ネットショッピングは別ブラウザから。 ■普段からアフィ対策を! ブラウザにadblockやuBlock導入+国内フィルタ全部載せが推奨です。 スマホは広告ブロッカーも多いのでお好みのものを(フィルタ追加できるものが効果的)。 勝手な広告やスパイウェアをブロックして安全で快適なネットライフを♪ スマホ通信量の節約、時短にもなります。 ※前スレ 初心者のための富士山登山入門128m http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1504257381/ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/1
316: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 07:45:07.88 ID:ZRs1xiGO がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般 的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言 葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延 川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など 、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術に おける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信( 伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリ ーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名 所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はない ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題と して描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は 法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵 伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒 駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士 は中国山水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶 碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型 富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩 図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富 士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれ た。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の 山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在とし て認識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼 羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池 が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富 士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸 時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』 を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた 葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画 『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様 な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/316
317: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 07:53:53.20 ID:ZRs1xiGO 活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、 夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大 波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌 川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士 三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実 地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』 でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らは これらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識され http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/317
318: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 08:02:52.34 ID:ZRs1xiGO ていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓 していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の 茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。5 0銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山か らの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、 写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われてい る。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本 を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近 代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道 路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や 保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作 しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として 富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチ ーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、 このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。189 3年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハン ガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、 日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いった い、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ば れる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっ とも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、 金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染み だ。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴 として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描か れた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子 らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的 画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして 富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で 富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも 富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こず http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/318
319: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 08:11:38.55 ID:ZRs1xiGO っている」という。日本画全般の題材として「富士見西行」が あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見 上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札 、旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙 幣や切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザ インに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の5 0銭政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の19 51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2 004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富 士山を描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、 精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北 斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨県( 2005年(平成17年))文学における富士山富士山は和歌 の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には 、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3. 318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、 この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「… 燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・3 19・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、 (山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時 の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今 和歌集』から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙 の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都 人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学で は都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『 竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや 姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じ て天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それか らその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた とする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/319
320: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 08:19:53.72 ID:ZRs1xiGO 比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現 存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言 及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない 。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、 古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては 駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』で は甲斐側の富士について触れられている。また、「八面玲瓏」 という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見て も整った美しい形を表している。中世から近世には富士北麓地 域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛 んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観 光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的など で富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學ら が富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀 行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多くおり、 武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書 いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の 記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託 の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ 激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を 記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の 中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ 作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも 務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小 説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」 はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建 っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務 していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を 描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の 富士にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮 市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅 前にはその歌碑が建てられている。「とある停車場富士の裾野 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/320
321: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 08:26:58.52 ID:ZRs1xiGO で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興 富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相 手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉 地として成立する規模の湯量は湧出していない。富士山の利用 について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、 山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題 、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等 、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/321
322: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 08:35:02.58 ID:ZRs1xiGO している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の知識や経 験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山開き から9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間 外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登 山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場 所は著名な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士 山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の 乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶 えない。また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富 士五湖は富士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ 富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝−白糸の滝は上 流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す 非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止めの滝と共 に日本の滝百選に指定されている。朝霧高原−朝霧高原は富士 山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自然と広大な 土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている 。ダイヤモンド富士−ダイヤモンド富士などがはっきりと拝め る田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特に写真撮影を 目的として訪れる観光客もいる。ドライブ−富士スバルライン や富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイカーで 上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間があり 、冬期は閉鎖される。富士山の日(2月23日)2月23日を 「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の 日」として制定している自治体がある。2001年(平成13 年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。 2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県 の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2009年(平 成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決 。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富 士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」 の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/322
323: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 10:06:02.20 ID:ZRs1xiGO 道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これ への対策として1906年、村山を経由しない新道が建設され たため、大宮から現在の六合目(標高2600m)までは登山 道としての機能を失った。この区間は一部除き登山道跡の推定 は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点 まで開通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/323
324: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 10:10:50.76 ID:ZRs1xiGO は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、 権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、 これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅し たが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道 者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされた参詣の 流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23, 700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成によ り、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほと んどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。( 推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5 .吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東 部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験 者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口 は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢 の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から1 7世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀 前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自 殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も 多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登 って山頂を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓 から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体 である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟 名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定された。1936年 に国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定された。19 52年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定され た。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続 中)。1996年に国・県が台風による森林の風倒被害に対す る対策に着手(継続中)。文化財保護法の下に他の文化財とと もに史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨士浅 間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の 荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/324
325: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 10:18:52.82 ID:ZRs1xiGO 立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされ る。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮 本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながり が強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進 によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内 の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の 本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰 組をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東 宮本殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿 とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して 、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮 冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に 所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね られていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点と して富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御 師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、 修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に 特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に 伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に 伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び 西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。19 52年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜63 年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜74年に 本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981 〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に 本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化 財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8 .精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成され た堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り が多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行から いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述 の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/325
326: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 10:26:23.82 ID:ZRs1xiGO り、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本 の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり、 重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なか でも、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1 935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」と いう写真は有名である。この写真は、1984年に採用された 五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/326
327: 底名無し沼さん [] 2017/09/20(水) 10:33:24.65 ID:lc+D1aXj http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1467207600/ お前こいつだろ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/327
328: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 10:34:57.03 ID:ZRs1xiGO された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している 本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ 同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整備の経緯 文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山 本宮浅間大社説明社記によれば806年に、富士山により近い 遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを 起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心的神社であ った。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、 広く信仰されている。創建当初は遥拝のための施設であったが 、15世紀ごろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大 社は村山浅間神社(興法寺)とともに大宮・村山口登山道の基 点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士 山中での諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康( 約150年間の戦乱期をおさめ統一政権である江戸幕府を開い た人物)の庇護の下、1604年現在の「浅間造り」と呼ばれ る独特な構造を持った社殿が造営されるとともに、1609年 山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社 は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年、幕府に よる裁判によりこの八合目以上の支配権が認められた。明治政 府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に 基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社 境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大社は 、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる 水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14 万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である 。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源と する池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が 身を清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記 でその様子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代ま で行われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多く いる。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺 保存法の下に特別保護建造物に指定された。1923〜26年 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/328
329: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 10:41:47.00 ID:ZRs1xiGO に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保 存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼 門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195 0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とされた。 1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修 理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等が行 われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われた( 部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行われた。1 3文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指 定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の 社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位置す べき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるの みという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いてい る。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用さ れたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では 1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577 年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が 開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間 大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が4 月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行 われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸 道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な くとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡 に指定される。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富 士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀 前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており 、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興 法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産 範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。富士山に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/329
330: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 10:48:37.79 ID:ZRs1xiGO おける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が 組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し 、その様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図 」に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と 大日堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者と も衰微した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続さ れた。また、村山の修験者の影響を受けた地域では現在でもそ の宗教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2 001年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発 掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とと もに史跡富士山として指定される予定。B4.須山浅間神社説 明須山口登山道の起点として遅くとも1524年には存在して いた神社である。1707年、宝永噴火により社殿は登山道も 含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再建された ものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わ りを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が 行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下 に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14 B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に 社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社であ る。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部 の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火 で崩壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使 用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい る。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心 に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約 80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社 殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修 理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富 士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古くから 富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが、8 64〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/330
331: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 10:56:42.04 ID:ZRs1xiGO 神社が建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖 の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社である可能性 が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く 官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半 から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士 講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師 集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし 、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/331
332: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 11:05:38.24 ID:ZRs1xiGO を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で 欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経 緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指 定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社 は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが 最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献 もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二 合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と して役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件 の下に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1 475、1525年と加修され、1564には地元領主による 大修理が行われている。現在の本殿は1612年建立と認めら れ、その後も1698年、1867年に修復が行われていた。 1973−74年には里宮の地にそのままの形で移設された。 里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するた めに河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々 な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地 の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である 。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口登山 道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985 年に移築された二合目本殿が文化財保護法の下に重要文化財に 指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士 山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に 宿や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝 の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的 なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北 西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田 の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面し て引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建 物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が 設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/332
333: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 11:13:31.20 ID:ZRs1xiGO 講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で ある。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講の流 行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1 860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経 緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財 に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行 われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行わ れた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動 によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修 行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷 川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数え られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り 行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、定ま っていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの 、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、 周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、景勝の地 でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、修理・ 整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B 11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、そ れぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富 士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行 が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元 八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士 講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整備の 経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物 に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷 川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内 に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し 、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船 津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/333
334: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 11:19:35.02 ID:ZRs1xiGO に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間 に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっ ての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的 保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存 法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明 1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。 富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを し、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士山 北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯19 29年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定さ れた。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原 )角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による 約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探 検の様子が描かれ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたと されている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間大菩 薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。 富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ 、長谷川角行が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神 とする)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。ま た、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人 穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。 また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記 念碑などを建立した。1942年付近が軍用地となり、人穴の 浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在 地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみら れるものの1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的 保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡となる。 文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定 される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする 数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1 6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えること をその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/334
335: 底名無し沼さん [sage] 2017/09/20(水) 11:25:29.99 ID:ZRs1xiGO 長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、 富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景 勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。 法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物 保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原 説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」 の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的 な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1505654412/335
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