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【栗城氏ソックリ】栗木ハンター(ワイエディ)【ネット工作!?】 (341レス)
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49: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:09:05.91 ID:ekftaF/Y0 カプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡 構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプ レートの境界域(三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山の マグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである。 富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること 、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄 武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。富士山頂山頂火 口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これ を囲むようにして8つの峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣 ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m2014年4月1 日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.23m 2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は、国土地理院によると 、最深部の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は7 80m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目より上は、富士宮市 にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。 2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平 太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地理院がイ ンターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指 定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地 点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっている ため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山 梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示になる http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/49
50: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:15:27.99 ID:ekftaF/Y0 よう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年( 1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面 に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている 。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。詳細は「宝永山 」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期 が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/50
51: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:21:26.21 ID:ekftaF/Y0 出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その 後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていた と見られるが、約2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大 規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新富士の山頂から溶 岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8,000年前の3,000年間と、 約4,500年前?約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部 からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが 、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。延暦19年− 21年(800年−802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩 を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝 永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった 。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性 の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代 が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781 年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語 』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安 時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、 平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。 宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした 文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残され ているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝 永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代 まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山に はいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止した http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/51
52: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:28:24.45 ID:ekftaF/Y0 ことも重なり、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業技術 総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ 富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年には修正加筆が終 了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43 回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩 屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3 回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されてい る活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている 。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メー トル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島 周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に 伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁 )−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施 する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない 。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に 富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関 する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的 に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広 域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められてい る。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規模な土石 流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日 、「富士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は20 16年1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で滑落し た登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登山者が死亡した事故を受け http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/52
53: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:34:37.63 ID:ekftaF/Y0 、再発防止策として、市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと 上限を設けたことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研 究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京大学地震研究所 )などにより観測が行われている。国土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測 所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの 電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢 塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎 坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化システム(V IsualizationsystemforVolcanicActivity )噴出物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し 火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施しハザー ドマップが作成されている。しかし、山体崩壊を想定したハザードマップは201 2年現在未作成である。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃ しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上10℃未満のツンド ラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5 月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高 気温が−30℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ることがない 1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測かつて気象庁東京管区気 象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士 山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行ってい る。詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ 、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の西部 から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風 に乗り降り積もったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の山 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/53
54: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:40:58.45 ID:ekftaF/Y0 梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形に 見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶作となるという言 い伝えがある。富士山では山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英 国海外航空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記念物とし て、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月24日指定 、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:192 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/54
55: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:47:54.86 ID:ekftaF/Y0 9年12月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山に降った雨 や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点 から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付近 )とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は 1968年で1日あたり154万立方メートル以上だという。しかし、近年湧出量 の減少が確認されている例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流 )、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)、白糸の滝(国 指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海(国指定の天然記念物) またの、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされて いる。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業な どの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含ん でいるため、ミネラルウォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖 コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。そ の中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一 の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨 県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴 沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。植生富士山 は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これ は富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の 生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたた めである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタ デ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士 薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっ ているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/55
56: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:53:40.13 ID:ekftaF/Y0 が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰の対象 とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富 士信仰と言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神 とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり全国に存在する。浅間 神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士 宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。 詳細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普 遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』 )や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂 の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物 語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河 の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を 跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、 イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に 帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考え られる。登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが 最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。 次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる 。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようにな り、特別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年 銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時 代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」と いう呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶこと も神仏習合に由来し、文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/56
57: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 06:59:57.30 ID:ekftaF/Y0 「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認で きる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内 院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された 経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社 の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され 、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興 宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立 つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程 度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』 の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須 走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、 先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)など が確認されている。明治以後慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、 これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像 の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり 大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護 摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の 呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年 (明治39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(2011年)2月 7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資 産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮 市・裾野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村 である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定さ れた。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/57
58: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 07:06:58.35 ID:ekftaF/Y0 指定された。登山史富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じってお り、諸説存在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年平安時 代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述が ある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬 であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き 、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天智天皇2 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/58
59: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 07:19:46.90 ID:ekftaF/Y0 馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所 であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1 852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始 め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を 行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコックが外国人と して初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社 奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書 寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、 不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24 日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人 禁制が解かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽 やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられるこ とになる。明治25年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年に も登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治2 8年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年 10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年1923年皇太子裕仁 親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬に て登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印など を行った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王の登 山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。 昭和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性 2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日 の登山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成2 0年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後、御殿場口登 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/59
60: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 07:25:56.57 ID:ekftaF/Y0 山道に入り登頂。富士山を巡る利権争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山 』山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来 の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収していた。 これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相 当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1 年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院散 銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「 村山」と「須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に 村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走 は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の 内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康 が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の 大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝す る慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山 役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道 を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は 1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」 では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。元禄の争論元禄16 年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社 )を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御 師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。 訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めた ことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/60
61: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 07:32:23.82 ID:ekftaF/Y0 勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの 、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となってい るとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた 浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏につ いては浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2 番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済と http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/61
62: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 07:39:32.54 ID:ekftaF/Y0 いう扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏 は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾 いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の 争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして 浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側 の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争 論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれる こととなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持 ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたと いう幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁 許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決 定された。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の 支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった 。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和27年(1952年)10月 7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨 県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村 )の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山 道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域 、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山 道(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コモンズには、 各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望 が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景 として、2005年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便な どでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをす http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/62
63: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 07:45:12.07 ID:ekftaF/Y0 ることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。富士山 の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士 見峠(妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も 西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川俣町と飯 舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図センターにより認定された(富 士山からは308kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三 原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた京都 府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県となった。様々な表 情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する 。富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出 した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」 を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。 「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆 さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、 本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモン ド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時 、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現 象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日 や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部か ら、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に 傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多 い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小 屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県 から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/63
64: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 07:51:03.58 ID:ekftaF/Y0 には歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では 既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記 述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略 )南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通した 記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であっ たと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏 不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士 』など、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術における富士山 三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ 構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた 諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記 録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられて いる。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『 聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗っ た聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図とし て描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分 かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』な ど物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画 としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に 着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認 識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間 大社所蔵、重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった 浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士 山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/64
65: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 07:57:57.12 ID:ekftaF/Y0 767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを 提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた 葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』( 天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠 近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き 、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/65
66: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 08:04:16.77 ID:ekftaF/Y0 『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に 『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅し て実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を 題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士 見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題とし て開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山 の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行) 岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品 や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画 においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ られ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き 継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など 交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞 在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残してい る画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチーフと した美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨー ロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオー ストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、日記 に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴―― ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか? ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金 属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ。??8月15日付 戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボ ルとして様々に描かれた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/66
67: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 08:11:14.33 ID:ekftaF/Y0 た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描いた。 また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや 風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中 で富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが 、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。日本画全般の題材 として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師) が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札の モデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用いられて いる。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある。古くは1913年発 行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の1951年と19 69年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。19 84年発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山で ある。富士山を描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、精進湖、本 栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北斎(1999年(平成11年) )オオマツヨイグサ・山梨県(2005年(平成17年))文学における富士山富 士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山 を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富 士の高嶺に雪は降りける」(3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)で ある。また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる 火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃 える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」 )とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌 集』から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもし らぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/67
68: 底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-RQbN [175.177.5.10]) [sage] 2018/01/05(金) 08:18:04.96 ID:ekftaF/Y0 され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹 取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不 死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことに なっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた とする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹 採塚」として言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊 勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少な い。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿 河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多い が、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。また、「八面玲 瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい 形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期に は地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾 野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れ るようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き 、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多 くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、 妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記し ている。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士 を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。 また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人 文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文 芸の振興にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富 嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1514990295/68
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