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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 (335レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/
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103: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:59:40.98 ID:ncJKes9f0 に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所に より現地調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画 」が策定された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山とし て指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡 り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「 いたゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義 を見出していたことが伺える。16世紀前半には地元為政者が「八要メサルヽ也」 との記述も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが 知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。 内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みなが ら、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明 水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道富士山南西麓の 浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀 前半、富士山で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀初め 、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行わ れていたことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同 世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等の施設が寄進されたとの記 録がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴 収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理 に関わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重 要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大 社には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ、同時期の絵図で ある「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して 登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合され、19世紀前半 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/103
104: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 01:59:57.85 ID:nhLYBjhR0 山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村により管理さ れていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになっ た際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の 状況を描いた絵図で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教 施設と山室がみられる。これらの施設及び登山道はその中腹よ り噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に復興 したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、18 80年代の記録では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗 教施設と4箇所の石室があることが確認できる。中宮浅間社や 水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用された。 登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日 本両方からの登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地 から確認できる。登拝者数は御縁年に当たる1800年に約5 ,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、続く 1860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神 仏分離令後も継続していたが、1883年、須山口二合八勺に 接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、1889年に東 海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上により須山口から の登拝者や登山者が減少することとなった。1912年には、 登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須 山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合八勺 以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。 また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でかつ ての登山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4 須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で 吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山道である。そ の起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある 掛仏が出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月 の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者 が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも17世紀まで に、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬 師嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬師堂の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/104
105: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:06:06.86 ID:ncJKes9f0 た。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登 拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に 適した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口 山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝 も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および 1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が 長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続 けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、191 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/105
106: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:06:30.78 ID:ncJKes9f0 坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山 道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設 され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建 設されたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これら は再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設としては発心門 、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場と していた静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不 連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19世紀初頭の 道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。 1826年の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記述もある が、1860年、初の外国人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経 由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や 登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者は増加 傾向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿場口利用者の増加により衰 退し、これへの対策として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道 (カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は登山 道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建設に雨水による侵食 も加わり、一部を除き登山道跡の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王 像、建物跡などをある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登山 道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂部浅間嶽 (駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源は明確ではないが、1200年の資料に は大宮・村山口、吉田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられて いる。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「すはま口」の名が確 認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12軒の御師を中 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/106
107: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:06:47.28 ID:nhLYBjhR0 入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅 間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、 1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権 利を認められた。−25−登山道の施設は1683年の資料等 で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗 教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。17 07年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走 村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け 、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた 。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料があるが 、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにさ れた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均約1万人、180 0年の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は関 東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見られ る。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走 口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口山頂部に 宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加 した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19 03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長 い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続 けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年 には、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は 浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また 、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。 1959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、 五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認 ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登 山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道で ある。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、 ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世紀後半 には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/107
108: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:12:57.39 ID:ncJKes9f0 は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間 大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、19 23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959 年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下 の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区 間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北口本宮冨 士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀に は、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間 にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のため の宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための設備が整うようにな った。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修 行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は 、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と 定めた。このため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半 以降は、年間数万人を数える富士講の道者が登拝したとされる。 1964年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者 が新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合 目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上について は、現在残る登山道の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と 同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。しかも、 古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。 写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924 年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定193 6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19 52年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定 1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、 2006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜 1合目区間を発掘調査・整備1999年「特別名勝富士山保存管 理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理計画」を改 訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一 部を史跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存 管理計画」を策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社富士 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/108
109: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:13:24.97 ID:ncJKes9f0 た須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いにな った際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図 で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施設 及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に 復興したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、1880年代の記録 では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが 確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用さ れた。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日本両方からの 登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁 年に当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700 人、続く1860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神仏分離令後 も継続していたが、1883年、須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿 された。また、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上により 須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。1912年には、登山道の 一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰 退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部 のみである。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でかつての登 山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道富士山東麓の 冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登 山道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏 が出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月の項に、関東地方での戦 乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅く とも17世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師 嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行っ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/109
110: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:13:41.71 ID:nhLYBjhR0 めの設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川 角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講 隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって 信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信 者が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える 富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富士山有料道 路が開通した後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御岳)を 起点として登るようになったため、五合目以下の道を利 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/110
111: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:19:41.80 ID:ncJKes9f0 、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津 彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に 祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148 0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神 社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が厚く 、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、16 15年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講との つながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清 の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる 境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の支配権は 外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の管理 も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登 山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が 伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し た神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本 殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907年古社寺 保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地 が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東 宮本殿・解体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿 、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工 事を行う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画 」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年) 1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997 年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺替え 修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本宮冨 士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に 他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「 史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A7西湖富士山の火山 活動により形成された堰止湖で、富士山の北北西に位置する。富 士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西 湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「?の海 (せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが、日本最古の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/111
112: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:20:05.47 ID:ncJKes9f0 た、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間 神社及び須走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。− 25−登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神 社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1 707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3m http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/112
113: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:20:23.93 ID:nhLYBjhR0 登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道 の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口 登山道を上って山頂を目指している。しかも、古道としては唯 一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口登 山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が 史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在 地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年 所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定19 78年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2 006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜 1合目区間を発掘調査・整備1999年「特別名勝富士山保存 管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理計画」 を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山 道の一部を史跡富士山として指定−26−2011年「史跡富 士山保存管理計画」を策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社 富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開 花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富 士山の遙拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を 起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16 世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。当神社は 領主からの崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、156 1年、1594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進し たものである。富士講とのつながりが強く、1730年には富 士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の 修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。 北口本宮冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田 の御師に所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた 者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があり、この神社を 起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や 吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真 北口本宮冨士浅間神社の写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表 法的保護、修理・整備の経緯1907年古社寺保存法の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/113
114: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:26:05.06 ID:ncJKes9f0 万葉集で?の海が詠われたほか、いくつかの文学作品ともゆかり がある。写真西湖の写真A8精進湖富士山の火山活動により形成 された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡 って修−27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも 多くの富士講徒が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの 精進湖畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には 、絵葉書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほと んどだった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動によ り形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の 湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多 くの富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度 も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(view point)である。富士山は、プロ・アマを問わず多くの写真 家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を 追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道 から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真 は、1984年に採用された5千円札及び2004年に採用され た千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一 体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮 影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本栖 湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9)1 936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定 1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定 2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用 が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定) 2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2) 信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であ り、この神社とともに発展してきた富士宮市の中央部に所在する 。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命を主祭神とし、現在全 国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境内には 登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は 7世紀ごろ、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/114
115: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:26:30.92 ID:ncJKes9f0 に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し 、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料があ るが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣の流行 で登拝者数は増加し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピ ークを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も 見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ下山する 形をとった。また、1831年、須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日 蓮宗の信徒による登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、お よび1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長い須走口は 敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続けた。1909年より登山道の 周囲に石垣を築き、1916年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八 合目以上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、192 3年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年、バス道路(現ふ じあざみライン)の完成により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道 としての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北 口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀には、富士 山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口 は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための 設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して 修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的 自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者 が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える富士講の道者が登拝し たとされる。1964年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が新 五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合目以下の道を利 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/115
116: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:32:28.27 ID:ncJKes9f0 現在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛ん であり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も 浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け 大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるようになり、 12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦勝の神 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/116
117: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:32:53.15 ID:ncJKes9f0 登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も多くの道 者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。し かも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口 登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念 物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国 立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定 1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂) 1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備199 9年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理 計画」を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史 跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定 )A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神とし て木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝 所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富 士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる 。当神社は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1 594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講とのつ ながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内 の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本 宮冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神 社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があ り、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田 御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の 写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/117
118: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:33:10.70 ID:nhLYBjhR0 された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1 984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千 円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体 の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮 影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本 栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9 )1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園 に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例 」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動 力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に 指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定 (予定)(2)信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に 位置する神社であり、この神社とともに発展してきた富士宮市 の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命 を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮 とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用された 湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ、富士山により近い遥拝 所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされる。 創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めること を信仰の目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い 神階を与えることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには 、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹である「 浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の 実権を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世 紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間神社 とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設 された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な 儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧 伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間 大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が 描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築 されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、16 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/118
119: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:39:15.18 ID:ncJKes9f0 信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大 社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿 坊が周辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水 垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し た登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図に は、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々 の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が 構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604 年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取 得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・ 支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部 の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、 村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由しない登 山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れた。ま た、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合目以上 の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社 に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修 理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に特別保護建 造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本殿 は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1 936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定 に伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行 われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿 の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査 を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005 年本殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵 文化財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基 づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定2010年 文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定湧 玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの 池である。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き 出す一日平均14万?(2008年)の水を源としている http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/119
120: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:39:58.31 ID:nhLYBjhR0 現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取 得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理 ・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂 上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈 以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由 しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が 訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされてい た八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/120
121: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:46:33.03 ID:ncJKes9f0 のメカニズムは、富士山の標高1000m前後ないしそれ以上の 高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したもの である。浅間大社の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める 考えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富 な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水に は灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水 徳の神・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている 。池の名前の由来には、地底から玉が湧き出るように湧水してい るためという説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の 名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名 称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間 大社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用 された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼 羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。この絵図では現在 の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設 が見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、 現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承されている。また、 湧水は聖なる水として現在でも利用する人が多い。湧玉池および 周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南端にある 「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作 られた石碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真 B2山宮浅間神社浅間大社の北北東約5kmに位置し、木花之佐 久夜毘売命を主祭神とする神社である。その起源は「富士本宮社 記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の英 雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀 ったこととされ、これが802年に再び遷され浅間大社となった とする。具体的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は155 1年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持 たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分 された遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。 この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/121
122: 底名無し沼さん (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) [sage] 2018/01/12(金) 02:46:59.91 ID:ncJKes9f0 5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。 この写真は、1984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千円札 の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本 栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残 している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9) 1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515669648/122
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