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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)7【ダメ工作員】 (348レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)7【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515724902/
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188: 底名無し沼さん (ワッチョイ 9e0c-53ns) [sage] 2018/01/13(土) 05:51:15 ID:GFydl90A0 れている。道者坊はその後統合され、19世紀前半には5坊と なった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を 経て村山口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗 教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主 に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設され たが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊さ れた。これらは再建されたが、その復興は須走口より遅かった 。主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などが あった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた 静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、153 2年以降不連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は1 8世紀後半から19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2 ,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。1826年 の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記 述もあるが、1860年、初の外国人登山となる英国公使オ− 24−ールコックは大宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざ した。彼の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子 が確認できる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者 は増加傾向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿 場口利用者の増加により衰退し、これへの対策として1906 年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(カケスバタ口 )が建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は 登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道 の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡の推定 は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡などを ある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登 山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起 点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起 源は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉 田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられて いる。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「 すはま口」の名が確認できる。登山道および山頂部銀明水は http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1515724902/188
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