[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)7【ダメ工作員】 (348レス)
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189: (ワッチョイ 9e0c-jusK) 2018/01/13(土)05:57 ID:78FOTcTx0(92/194) AAS
当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人で
あった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883年、
須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。また、
1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上によ
り須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。191
2年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となった
ため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二
合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみであ
る。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でか
省22
190: (ワッチョイ 9e0c-XhTK) 2018/01/13(土)05:57 ID:78FOTcTx0(93/194) AAS
AA省
191: (ワッチョイ 9e0c-53ns) 2018/01/13(土)05:58 ID:GFydl90A0(48/104) AAS
山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村により管理さ
れていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになっ
た際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の
状況を描いた絵図で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教
施設と山室がみられる。これらの施設及び登山道はその中腹よ
り噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に復興
したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、18
80年代の記録では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗
教施設と4箇所の石室があることが確認できる。中宮浅間社や
水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用された。
省22
192: (ワッチョイ 9e0c-jusK) 2018/01/13(土)06:03 ID:78FOTcTx0(94/194) AAS
た。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登
拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に
適した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口
山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝
も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および
1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が
長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続
けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年
193: (ワッチョイ 9e0c-XhTK) 2018/01/13(土)06:04 ID:78FOTcTx0(95/194) AAS
坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山
道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設
され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建
設されたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これら
は再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設としては発心門
、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場と
していた静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不
連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19世紀初頭の
道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。
1826年の記録ではその数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記述もある
省14
194: (ワッチョイ 9e0c-53ns) 2018/01/13(土)06:04 ID:GFydl90A0(49/104) AAS
入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅
間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、
1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ
いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権
利を認められた。−25−登山道の施設は1683年の資料等
で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗
教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。17
07年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走
村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け
、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた
省22
195: (ワッチョイ 9e0c-XhTK) 2018/01/13(土)06:10 ID:78FOTcTx0(96/194) AAS
た須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いにな
った際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図
で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施設
及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に
復興したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、1880年代の記録
では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが
確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用さ
れた。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日本両方からの
登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁
年に当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700
省14
196: (ワッチョイ 9e0c-53ns) 2018/01/13(土)06:11 ID:GFydl90A0(50/104) AAS
めの設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川
角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって
信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信
者が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える
富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富士山有料道
路が開通した後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御岳)を
起点として登るようになったため、五合目以下の道を利用す
197: (ワッチョイ 9e0c-jusK) 2018/01/13(土)06:11 ID:78FOTcTx0(97/194) AAS
は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間
大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、19
23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959
年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下
の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区
間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北口本宮冨
198
(1): (ワッチョイ 9e0c-jusK) 2018/01/13(土)06:17 ID:78FOTcTx0(98/194) AAS
、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津
彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に
祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148
0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神
社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主からの崇敬が厚く
、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、16
15年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講との
つながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清
の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる
境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間神社の支配権は
省22
199: (ワッチョイ 9e0c-XhTK) 2018/01/13(土)06:17 ID:78FOTcTx0(99/194) AAS
た、内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間
神社及び須走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利につ
いて八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認められた。−
25−登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神
社、古御岳神社等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1
707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの降
200: (ワッチョイ 9e0c-53ns) 2018/01/13(土)06:18 ID:GFydl90A0(51/104) AAS
登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道
の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口
登山道を上って山頂を目指している。しかも、古道としては唯
一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口登
山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が
史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年
所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定19
78年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2
006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜
省22
201: (ワッチョイ 9e0c-jusK) 2018/01/13(土)06:22 ID:78FOTcTx0(100/194) AAS
万葉集で?の海が詠われたほか、いくつかの文学作品ともゆかり
がある。写真西湖の写真A8精進湖富士山の火山活動により形成
された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡
って修−27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも
多くの富士講徒が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの
精進湖畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には
、絵葉書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほと
んどだった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動によ
り形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多
省22
202: (ワッチョイ 9e0c-XhTK) 2018/01/13(土)06:23 ID:78FOTcTx0(101/194) AAS
に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し
、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料があ
るが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣の流行
で登拝者数は増加し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピ
ークを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も
見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ下山する
形をとった。また、1831年、須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日
蓮宗の信徒による登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、お
よび1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長い須走口は
敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続けた。1909年より登山道の
省14
203: (ワッチョイ 9e0c-53ns) 2018/01/13(土)06:23 ID:GFydl90A0(52/104) AAS
宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地が文化財保護
法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東宮本殿・解
体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿、西宮本
殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解体修理工事を行
う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画」を
策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年)1
981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997
年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺替
え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本
宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法
省22
204: (ワッチョイ 9e0c-jusK) 2018/01/13(土)06:29 ID:78FOTcTx0(102/194) AAS
現在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛ん
であり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も
浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け
大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるようになり、
12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦勝の神とし
205: (ワッチョイ 9e0c-XhTK) 2018/01/13(土)06:29 ID:78FOTcTx0(103/194) AAS
登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も多くの道
者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。し
かも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口
登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国
立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定
1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)
1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備199
9年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理
計画」を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史
省14
206: (ワッチョイ 9e0c-53ns) 2018/01/13(土)06:29 ID:GFydl90A0(53/104) AAS
された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1
984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千
円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体
の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮
影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本
栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9
)1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園
に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例
」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動
力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
省22
207: (ワッチョイ 9e0c-XhTK) 2018/01/13(土)06:35 ID:78FOTcTx0(104/194) AAS
寺保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地が文化財保護法
の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東宮本殿・解体修理工事を行う19
53年文化財保護法の下に本殿、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿
・解体修理工事を行う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理計画」を
策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年)1981年東宮本殿・
部分修理工事を行う(〜82年)1997年東宮本殿・部分修理工事を行う200
8年本殿・屋根の葺替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口
本宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財
とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を
策定(予定)A7西湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北北
省14
208: (ワッチョイ 9e0c-53ns) 2018/01/13(土)06:36 ID:GFydl90A0(54/104) AAS
現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理
・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂
上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈
以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由
しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が
訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされてい
た八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2
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