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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)36【ダメ工作員】 (370レス)
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267: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/25(木) 21:54:31 ID:LUZJg0/k0 。また、登山道ごとに標高は異なるが、1779年以降、エムゾネ 浅間大社の境内地とされてきた八合目以上はより強い神聖性を 持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口であ る「内院」の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。富 士山頂へ向かい、登山の歴史の中で開鑿された登山道が、現在 の4エムゾネ本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界 に沿い、富士山山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご ろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ、そ の後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、富士講信者によ り修行の道とエムゾネして利用された。表法的保護、修理・整備の 経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定 1936年国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19 52年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定196 9年国が大沢崩れに対エムゾネする砂防事業に着手(継続中)19 96年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手 (継続中)「御中道」は、標高2,300m付近から2,80 0m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周する 約25kmの道である。「御中エムゾネ道巡り」は、修験道の祖と される役行者が始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基 礎を築いた長谷川角行が行ったことが記録されている。古くは 定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んになった江戸時 代後期には一定の道が整備された。富士エムゾネ山信仰の上では、 山体西側の大沢崩れを渡るという危険を伴う最大級の大行の道 とされていた。富士登山3回以上の経験を持ち、誓約書を御師 に提出し、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど厳 しいものであった。この御中道の巡拝を無事終えエムゾネると、そ の証である「御許し」を御師から受けることができた。181 6年の資料では年間100人以上が御中道巡りを行っ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/267
268: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-4kaF) [sage] 2018/01/25(木) 21:55:11 ID:LUZJg0/k0 興法寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707年の 宝永噴火で登山道とエムゾネ共にことごとく破壊された。これらは 再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設 としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興 法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を含む 西日本の人々が多かっエムゾネた。なお、1532年以降不連続で あるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19 世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年 で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少 し、村山の村落も衰退しエムゾネていたとの記述もあるが、186 0年、初の外国人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大 宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡 坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以 降、女人登山の解禁もありエムゾネ、登山者は増加傾向を示すが、 1889年、東海道線の開通による御殿場口利用者の増加により 衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由せず4km 短縮された大宮新道(カケスバタ口)が建設されたため、大宮か ら現六合目までの村山口登山エムゾネ道は登山道としての機能を失 い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建設に雨水による侵食も 加わり、一部を除き登山道跡の推定は困難な状態であり、道標、 地蔵・不動明王像、建物跡などをある程度たどることができるの みである。写真大宮・村山口登エムゾネ山道の写真A3須山口登山 道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ 嶽)に至る登山道である。その起源は明確ではないが、1200 年の資料には大宮・村山口、吉田口、須山(珠山)口以外には登 山道がないことが述べられているエムゾネ。1486年の京都の僧 による資料(廻国雑記)では、「すはま口」の名が確認できる。 登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12軒の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/268
269: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/25(木) 21:55:50 ID:LUZJg0/k0 る本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同 じ姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理 ・エムゾネ整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地が国立公 園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五 湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に 本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年エムゾネ文 化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/269
270: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/25(木) 21:56:10 ID:LUZJg0/k0 。また、登山道ごとに標高は異なるが、1779年以降、エムゾネ 浅間大社の境内地とされてきた八合目以上はより強い神聖性を 持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口であ る「内院」の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。富 士山頂へ向かい、登山の歴史の中で開鑿された登山道が、現在 の4エムゾネ本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界 に沿い、富士山山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご ろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ、そ の後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、富士講信者によ り修行の道とエムゾネして利用された。表法的保護、修理・整備の 経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定 1936年国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19 52年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定196 9年国が大沢崩れに対エムゾネする砂防事業に着手(継続中)19 96年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手 (継続中)「御中道」は、標高2,300m付近から2,80 0m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周する 約25kmの道である。「御中エムゾネ道巡り」は、修験道の祖と される役行者が始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基 礎を築いた長谷川角行が行ったことが記録されている。古くは 定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んになった江戸時 代後期には一定の道が整備された。富士エムゾネ山信仰の上では、 山体西側の大沢崩れを渡るという危険を伴う最大級の大行の道 とされていた。富士登山3回以上の経験を持ち、誓約書を御師 に提出し、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど厳 しいものであった。この御中道の巡拝を無事終えエムゾネると、そ の証である「御許し」を御師から受けることができた。181 6年の資料では年間100人以上が御中道巡 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/270
271: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/25(木) 21:56:48 ID:LUZJg0/k0 興法寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707年の 宝永噴火で登山道とエムゾネ共にことごとく破壊された。これらは 再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設 としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興 法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を含む 西日本の人々が多かっエムゾネた。なお、1532年以降不連続で あるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19 世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年 で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少 し、村山の村落も衰退しエムゾネていたとの記述もあるが、186 0年、初の外国人登山となる英国公使オ−24−ールコックは大 宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡 坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以 降、女人登山の解禁もありエムゾネ、登山者は増加傾向を示すが、 1889年、東海道線の開通による御殿場口利用者の増加により 衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由せず4km 短縮された大宮新道(カケスバタ口)が建設されたため、大宮か ら現六合目までの村山口登山エムゾネ道は登山道としての機能を失 い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建設に雨水による侵食も 加わり、一部を除き登山道跡の推定は困難な状態であり、道標、 地蔵・不動明王像、建物跡などをある程度たどることができるの みである。写真大宮・村山口登エムゾネ山道の写真A3須山口登山 道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ 嶽)に至る登山道である。その起源は明確ではないが、1200 年の資料には大宮・村山口、吉田口、須山(珠山)口以外には登 山道がないことが述べられているエムゾネ。1486年の京都の僧 による資料(廻国雑記)では、「すはま口」の名が確認できる。 登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/271
272: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/25(木) 22:01:23 ID:LUZJg0/k0 、1977年の転落事故で通行止めとなり、現在では一周する ことはできなくなっている。写真御中道の写真A1山頂信エムゾネ 仰遺跡(富士山本宮奥宮)富士山山頂部の火口壁沿いに、いく つかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士山への信仰登山 が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造 営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行 為がエムゾネ体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「御 来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる 神仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼 荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉め ぐり)」と呼エムゾネばれる行為を行なうことが一般的であった。 山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立 された大日寺(大日堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・ 仏像等の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。ま た、遅くとも17世紀エムゾネには、大宮・村山口山頂部に大日堂 が、吉田・須走口山頂部に薬師堂が造営された。この様子は1 9世紀中ごろの絵図によって確認できる。1874年、山頂の 仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピー クの名称も変更され、寺院は神エムゾネ社に改変された。しかし、 山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の行為は現 代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて富士 信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的 保護、修理・整備の経緯1924年所在エムゾネ地が史蹟名勝天然 紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園 法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化 財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法 人静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査がエムゾネ行われ、 その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/272
273: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-4kaF) [sage] 2018/01/25(木) 22:02:03 ID:LUZJg0/k0 心とした須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を 巡り、須走村と争いになった際は浅エムゾネ間大社の裁定を仰いで いる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図で須山御胎内に 附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施 設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御 縁年の1740年に復興したが永続せエムゾネず、1780年によ うやく復興した。また、1880年代の記録では御室浅間神社、 中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが確 認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場 としても使用された。登拝者についてはエムゾネ詳しい研究が進ん でいないが、西日本・東日本両方からの登山者があったことが、 宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁年に当 たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約 1,700人、続く1860年の御縁年にエムゾネは約3,600 人であった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883 年、須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。ま た、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上 により須山口からの登拝者や登山者が減少すエムゾネることとなっ た。1912年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可 能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っ ている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一 部のみである。また、1999年、地元住民にエムゾネより須山口 下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興された。写真須山口 登山道の写真A4須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点 とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山 道である。その起源は明確ではないが、六合目かエムゾネらは13 84年の銘のある掛仏が出土している。文献からは「勝山記」の 1500年6月の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/273
274: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/25(木) 22:03:00 ID:LUZJg0/k0 、1977年の転落事故で通行止めとなり、現在では一周する ことはできなくなっている。写真御中道の写真A1山頂信エムゾネ 仰遺跡(富士山本宮奥宮)富士山山頂部の火口壁沿いに、いく つかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士山への信仰登山 が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造 営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行 為がエムゾネ体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「御 来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる 神仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼 荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉め ぐり)」と呼エムゾネばれる行為を行なうことが一般的であった。 山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立 された大日寺(大日堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・ 仏像等の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。ま た、遅くとも17世紀エムゾネには、大宮・村山口山頂部に大日堂 が、吉田・須走口山頂部に薬師堂が造営された。この様子は1 9世紀中ごろの絵図によって確認できる。1874年、山頂の 仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピー クの名称も変更され、寺院は神エムゾネ社に改変された。しかし、 山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の行為は現 代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて富士 信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的 保護、修理・整備の経緯1924年所在エムゾネ地が史蹟名勝天然 紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園 法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化 財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法 人静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査がエムゾネ行われ、 その成果に基づき2010年に「史跡富士山 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/274
275: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/25(木) 22:03:40 ID:LUZJg0/k0 心とした須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を 巡り、須走村と争いになった際は浅エムゾネ間大社の裁定を仰いで いる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図で須山御胎内に 附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施 設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御 縁年の1740年に復興したが永続せエムゾネず、1780年によ うやく復興した。また、1880年代の記録では御室浅間神社、 中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが確 認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場 としても使用された。登拝者についてはエムゾネ詳しい研究が進ん でいないが、西日本・東日本両方からの登山者があったことが、 宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁年に当 たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約 1,700人、続く1860年の御縁年にエムゾネは約3,600 人であった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883 年、須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。ま た、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上 により須山口からの登拝者や登山者が減少すエムゾネることとなっ た。1912年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可 能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っ ている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一 部のみである。また、1999年、地元住民にエムゾネより須山口 下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興された。写真須山口 登山道の写真A4須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点 とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山 道である。その起源は明確ではないが、六合目かエムゾネらは13 84年の銘のある掛仏が出土している。文献からは「勝山記」の 1500年6月の項に、関東地方での戦乱を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/275
276: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/25(木) 22:08:21 ID:LUZJg0/k0 策定された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに 史跡富士山として指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各 峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在もエムゾネ 多くの人々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「い たゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の 峰々に信仰的意義を見出していたことが伺える。16世紀前半 には地元為政者が「八要メサルヽ也」との記述も見ら http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/276
277: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-4kaF) [sage] 2018/01/25(木) 22:09:01 ID:LUZJg0/k0 すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも1 7世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山エムゾネ頂部ま でを支配し、薬師嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬 師堂の開帳・入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭 取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須 走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、エムゾネこれ らの権利について八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い 、正式に権利を認められた。−25−登山道の施設は1683年 の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社 等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されエムゾネて いる。1707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神 社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援 を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集 めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料エムゾネ があるが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセッ トにされた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均約1万人、1 800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は 関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見エムゾ ネられる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した 須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口山頂部 に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加 した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19エム ゾネ03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が 長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続 けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年に は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間 エムゾネ大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また 、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されて http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/277
278: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/25(木) 22:09:36 ID:LUZJg0/k0 大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、 修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下にエムゾネ特別保 護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本 殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1 936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に 伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋エムゾネ根の修理等が行 われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿の 屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行 った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本殿 の屋根の修理等が行われた2008年エムゾネ財団法人静岡県埋蔵文化 財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2 010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定2010年文化財保 護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定湧玉池は富士 山本宮浅間神社境内に所在すエムゾネる面積約2,500?の池である 。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平 均14万〜(2008年)の水を源としている。湧水のメカニズム は、富士山の標高1000m前後ないしそれ以上の高所の降水が地 下にしみ込み、何層エムゾネもある溶岩層の間にはさまれて充満し、そ れが押し出されるようにして末端から湧出したものである。浅間大 社の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を 聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉 池のほとりエムゾネに置かれたとされる。この湧水には灌漑用水として の役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神とし ての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来には 、地底から玉が湧き出るように湧水しているためという説や湧く霊 たエムゾネま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世紀後半の地 元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は1670年作成の「 社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝し、富 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/278
279: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/25(木) 22:09:56 ID:LUZJg0/k0 策定された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに 史跡富士山として指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各 峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在もエムゾネ 多くの人々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「い たゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の 峰々に信仰的意義を見出していたことが伺える。16世紀前半 には地元為政者が「八要メサルヽ也」との記 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/279
280: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/25(木) 22:10:38 ID:LUZJg0/k0 すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも1 7世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山エムゾネ頂部ま でを支配し、薬師嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬 師堂の開帳・入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭 取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須 走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、エムゾネこれ らの権利について八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い 、正式に権利を認められた。−25−登山道の施設は1683年 の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社 等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されエムゾネて いる。1707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神 社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援 を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集 めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料エムゾネ があるが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセッ トにされた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均約1万人、1 800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は 関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見エムゾ ネられる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した 須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口山頂部 に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加 した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19エム ゾネ03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が 長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続 けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年に は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間 エムゾネ大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また 、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/280
281: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/25(木) 22:15:30 ID:LUZJg0/k0 盛んエムゾネになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが 知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山 頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中 にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮) の大日如来、エムゾネ最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金 明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口 登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、 山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山で修行 した末代上人の開削しエムゾネた登山道が起源だとされ、14世紀 初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山 を基点とする登山が行われていたことが推測できる。15世紀 に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同世紀前半には、地 元支配者である今川氏により発エムゾネ心門等の施設が寄進された との記録がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め 、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この権利は19 世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に関わることは なかった。一方、16世紀ごろ、浅間大エムゾネ社は湧玉池での水 垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由 した登拝を喧伝した。浅間大社には16世紀前半に30余りの 道者坊があったことが伝えられ、同時期の絵図である「絹本著 色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山エムゾネ浅間神社 を経由して登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後 統合され、19世紀前半には5坊となった。また、1600年 頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山道を利用す ることが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初エムゾネ 頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法 寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707年の宝 永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これら http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/281
282: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-4kaF) [sage] 2018/01/25(木) 22:16:12 ID:LUZJg0/k0 959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合 目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができ なエムゾネい区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山 道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である 。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一 般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣 の道エムゾネ者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/282
283: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/25(木) 22:16:51 ID:LUZJg0/k0 ざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子は「エムゾネ絹 本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登 山記で確認できる。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ 、水垢離する人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は 1920〜30年代まで行われ、現在では山開きのエムゾネ恒例行事に 形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも 利用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設 があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であ り、現在でも1691年に作られた石碑がエムゾネたもとに残されてい る。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社の北北東 約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である 。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた 浅間大神を、神話上の英雄であるエムゾネ日本武尊が大神の神威により 難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ、これが802年に再び 遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳だが、文 献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋 以外の建物施設を持たずエムゾネ、拝殿・本殿等が位置すべき場所には 石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異な 形態を示している。この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めて いると推定されており、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。 発掘調査では1エムゾネ2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推 定される破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での 宗教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅間 大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは 4月とエムゾネ11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神 社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である 。行事の意味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈 と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈が http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/283
284: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-XqOq) [sage] 2018/01/25(木) 22:17:11 ID:LUZJg0/k0 盛んエムゾネになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが 知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山 頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中 にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮) の大日如来、エムゾネ最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金 明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口 登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、 山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山で修行 した末代上人の開削しエムゾネた登山道が起源だとされ、14世紀 初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山 を基点とする登山が行われていたことが推測できる。15世紀 に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同世紀前半には、地 元支配者である今川氏により発エムゾネ心門等の施設が寄進された との記録がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め 、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この権利は19 世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に関わることは なかった。一方、16世紀ごろ、浅間大エムゾネ社は湧玉池での水 垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由 した登拝を喧伝した。浅間大社には16世紀前半に30余りの 道者坊があったことが伝えられ、同時期の絵図である「絹本著 色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山エムゾネ浅間神社 を経由して登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後 統合され、19世紀前半には5坊となった。また、1600年 頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山道を利用す ることが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初エムゾネ 頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法 寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707年の宝 永噴火で登山道と共にことごとく破壊された http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/284
285: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-CMKN) [sage] 2018/01/25(木) 22:17:50 ID:LUZJg0/k0 959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合 目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができ なエムゾネい区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山 道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である 。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一 般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣 の道エムゾネ者のための宿坊もでき始め、大勢 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/285
286: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/25(木) 22:21:45 ID:LUZJg0/k0 れたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設とし てはエムゾネ発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は 興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を 含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続で あるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から1 9世紀初頭のエムゾネ道者坊の記録より、御縁年で2,000人前 後、平年で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではそ の数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記述もあるが、 1860年、初の外国人登山となる英国公使オ−24−ールコ ックは大宮を経由してエムゾネ村山に宿泊し、山頂をめざした。彼 の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子が確認で きる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者は増加傾 向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿場口利用 者の増加により衰退し、これへエムゾネの対策として1906年、 村山を経由せず4km短縮された大宮新道(カケスバタ口)が 建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は登山 道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建 設に雨水による侵食も加わり、一部を除エムゾネき登山道跡の推定 は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡などを ある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登 山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起 点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道でエムゾネある。そ の起源は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口 、吉田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べら れている。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では 、「すはま口」の名が確認できる。登山道および山頂部銀エムゾネ 明水は須山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村によ り管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516784538/286
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