[過去ログ]
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)40【ダメ工作員】 (369レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)40【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
306: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 12:55:38.99 ID:/kmEsvOR0 富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の 巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規 制B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区 @自然地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞 穴、エムゾネ樹型等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富 士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹 型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/306
307: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 13:03:01.44 ID:/kmEsvOR0 る森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然林、森林施業地 、人工林・社エムゾネ叢林、境内林・富士山特定地理等保護林・富 士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公開活用 を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案 内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用道路、電柱、 看板など)顕著な普遍エムゾネ的価値を構成する諸要素と密接に関 わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@ 自然的要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、 社寺境内、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B人文的要 素(農耕地、市街地、道路、そエムゾネの他人工物)上表において 分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍 的価値を構成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山富士 山体のうち、標高約1500m以上の範囲である。この範囲は 、周辺の浅間神社や展望地点から見た可エムゾネ視領域が重なり合 う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山 道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」( 乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点) の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民エムゾネが、とり わけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサ マ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には 山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境 界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対エムゾネ 象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現 在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿って 、富士山体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされ る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41− を通エムゾネるため富士講信者により修行の道として利用された。 写真標高約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/307
308: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 13:04:28.16 ID:/kmEsvOR0 、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわか る。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周 辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを 烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称エムゾネされる食行身禄 が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐国志 」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ 身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期 にはすでに身禄の聖地として信者が登エムゾネ拝していたことがわかる 。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真烏帽子岩の写真 A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図 北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年代 に富士講の指導者である村上エムゾネ光清の寄進によって境内の建造物 群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。 社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで 吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ち ながら発展した神社エムゾネである。顕著な普遍的価値を構成する諸要 素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、 吉田口登山道の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留 郡の領主鳥居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間 の規模で、エムゾネ入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の 向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。 各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な 装飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、 すエムゾネぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本 殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝え られるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営した ものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間のエムゾネ向 拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿はも http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/308
309: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 13:09:30.47 ID:/kmEsvOR0 遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、 7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命 である。『本エムゾネ朝世紀』には、久安5年(1149)「富士 上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺 と称し、写経を埋納下した」とある。江戸時代には、村山三坊 所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に より山中の仏像を取りエムゾネ除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅 間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a) 蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p)奥宮の裏手、浅 間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵 が彫られている。天保年間(1エムゾネ830−34)に、岸岱が 作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ 31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られて いる。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑さ れた。後年、落雷により破壊されたが、エムゾネ昭和42年(19 67)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮 の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田 口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須 志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山エムゾネ切手を改 めた。古くは山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と 同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称した。写真 東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊 験あらたかな「御霊水」として珍重された。大正期の写真エムゾネ をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や幟などもみ られる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験あらたか な湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何 なる旱にも水の涸れることはない」と記している。写真銀明水 の写エムゾネ真[銀明水の石碑群](a)石碑@(高さ112× http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/309
310: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 13:10:56.78 ID:/kmEsvOR0 より西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿 入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建 物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西エムゾネ宮本殿西宮 本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わ る本殿として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立によ り現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流 造であるが、両側面と背面は二間で一間のエムゾネ向拝をつける。西 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/310
311: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 13:16:48.17 ID:/kmEsvOR0 62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年 代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。 (b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍 が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑B(未計測 )「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写 真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆 岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800 mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集 註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉 時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は 、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更 された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣 ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。 なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰 」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m )]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると 剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという 。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を 禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行われて いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山 岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/311
312: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 13:18:17.98 ID:/kmEsvOR0 本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪 華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重 な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚 山社誌では、日本武尊が富士山をエムゾネ遙拝した地であり、ここを浅 間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、788年 には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武 尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をな しており、日本武尊を祀エムゾネる祠が建てられている。写真大塚山の 写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。 吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる 。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とさ れる。写真御鞍エムゾネ石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要 素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡 拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの 芸術作エムゾネ品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素 として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖 図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修 行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつのエムソ ゙ネ時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の 地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を 構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖 の写真A9本栖湖図以下に示す要素が点在している平面エムゾネ図富士 山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって 行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられてい る。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕 著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然エムゾネ地形(湖水)や 中ノ倉峠からの展望などがある。写真本栖湖の写真A信仰に関わ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/312
313: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 13:23:06.22 ID:/kmEsvOR0 現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち 、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725 m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手 にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥 居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石 造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正 面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須志岳の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/313
314: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 13:24:28.82 ID:/kmEsvOR0 周辺のものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在してい る平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称される 。神立山及び富士山本宮浅間大社の基エムゾネ盤を構成する地形は、新 富士火山旧期溶岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広 がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあた る。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見 される。また、当該地区は風エムゾネ致地区・保安林にも指定され、渋 沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年( 1670)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築 物が描かれ、発掘調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神 立山の写真・湧玉池エムゾネ(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、 国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨 や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ 、溶岩流末端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上 池と下池にエムゾネ分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を 御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山 中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富 士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉 池エムゾネの写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわ たってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹 林に指定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「 野鳥の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿エムゾネ・ 透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営 されたという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の 浅間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜 11年(1604〜06)に徳川家康が造営したもエムゾネのである。 写真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財 である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/314
315: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 13:37:02.40 ID:/kmEsvOR0 で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写 真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の 急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在 はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾 斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部 では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石 塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭 が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす 、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部エムゾネである。火口の外 壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・ 虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅 子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石 かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩エムゾネが急速に 冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現 在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知ら れ、食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人か らの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定しエムゾネ たとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、 この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。ま た、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、 8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生 け捕エムゾネりにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪 解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に 姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻 −44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士 山頂の難所とエムゾネして知られた。道の火口側には、火山礫を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/315
316: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 13:38:28.07 ID:/kmEsvOR0 流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町エムゾネ時代の初期には すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両 側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境 部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸 橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川へのエムゾネ流出口に石造りの橋が架 けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺か http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/316
317: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 13:44:12.10 ID:/kmEsvOR0 み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登り きったところにあったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、 登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座 する浅間大菩薩を拝むエムゾネ場所であった。また、御来光を拝む 場所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていな いため、場所を特定することはできない。写真吉田須走拝所跡 の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったと される。大正2年(1913)エムゾネの登山スタンプが押された 写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認でき る。現在その地点には、2つの目印の石が存在している。写真 須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏 手に建つ鳥居を「大宮拝所」としているエムゾネ。『富士山明細図 』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このし ろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、そ れぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永 元年(1624)の銘があったとされる。昭和初エムゾネ期の絵葉 書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。 写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(192 9)、頂上の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それ を受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経エムゾネ 巻が詰まった経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士 山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が残っており、うち 5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタイルや計測 値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真 出土エムゾネ遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る 「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の北側で 道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山岳 に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金明水 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/317
318: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 13:50:01.70 ID:/kmEsvOR0 至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自 然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立 入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素 が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5q 、天照教社の西南西約エムゾネ1qの地点(標高約830m)に、 東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、自 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/318
319: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 13:51:27.18 ID:/kmEsvOR0 側が神路枚橋であるが、寛文10エムゾネ年(1670)の絵図では西 側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図 B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流 地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域 は北山溶岩流上に展開しエムゾネている。また、遥拝所が位置する小高 い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、 天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展 開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を 含め、4つの異エムゾネなる溶岩流地形が広がっていることになる。遥 拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火に よって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区 域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、樹 木等にエムゾネ遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていたため、 この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真溶岩流 地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3 mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780uの社叢を形エムソ ゙ネ成しており、富士宮市の保存樹林に指定されている。・籠屋(参 籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠 屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「 山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸エムゾネ職が一 夜参籠した場所である。−53−・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続 く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石 」が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置 に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれてエムゾネいる。・石段( 参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現 在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・ 石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている 。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積エムゾネみ上げて構築され、部 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/319
320: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 13:55:55.24 ID:/kmEsvOR0 の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛 んであった頃、山伏が峰入修行エムゾネに先立ち札打を行った。昭 和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られた という写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口 登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に 約500mの地点に位置する。標高は約エムゾネ1,280mであ る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平 坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている 。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸 時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとさエムゾネれる。ま た、ここからは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋 は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦 面の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって 痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性が指摘されるエムゾネ 。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約 100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が並 んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、 八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれている。 駿河エムゾネ国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(184 3)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』に は、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井 戸を掘ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡 堂の井戸」とエムゾネは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考 えられている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・ 5号建物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面 の倒木帯となり、その中に5号建物跡がある。標高は約1,8 65mである。平成5エムゾネ年の富士宮市による調査では、平場 の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成2 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/320
321: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 13:57:22.91 ID:/kmEsvOR0 的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1 2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ れる。写真石塁の写真図石塁エムゾネの平面図・断面図・玉垣遥拝所の 周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦 後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門 扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行 うことを目的としてエムゾネ築造されたと推定される施設である。南北 約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶 岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇 が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・ 案主席、献エムゾネ饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられて いる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に 、石鳥居が建てられている。昭和6年(1931)に建立されたも のである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山 浅エムゾネ間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩 流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあ たる。見付の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。 村山地区は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一エムゾネ段 高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池 」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西 側から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落エムゾネを成立させ た要因の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ] −54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定さ れた。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1 9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根エムゾネの発達も著しい。気 根が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/321
322: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 14:03:13.95 ID:/kmEsvOR0 年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見 つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動 明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧 本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有 来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる 。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈 によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7 号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置 にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物 跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され 、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に 石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜 面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の 縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「 一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有 来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」 にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人 が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号 建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11 号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北 約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直 径約90pの丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他の建物 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/322
323: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 14:04:44.26 ID:/kmEsvOR0 乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前 はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀でし め縄を張る。[大スギ]昭和31エムゾネ年5月24日に県天然記念物 に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内 の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17 .5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及 ぶ空洞がある。案内板でエムゾネは約1,000年の樹齢とされるが http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/323
324: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-8y6r) [sage] 2018/01/27(土) 14:09:49.21 ID:/kmEsvOR0 でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡 の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている 。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置した ものである。A3須山口登山道エムゾネ図登山道に要素が点在して いる平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目( 標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である 。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を 通り抜けることができる。登山者は、こエムゾネの洞穴を通って登 山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地 形として須山御胎内の南東側に残っている。このエムゾネ付近の溶 岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1 230年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火 時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査で は、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付エムゾネ 近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形 成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須 山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されてい る。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後 の平エムゾネ成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内 の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山 御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられ ている。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎 内)」と記さエムゾネれた標柱が、富士山須山口登山道保存会によ って設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の 溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A 4須走口登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/324
325: 底名無し沼さん (ワッチョイ 560c-rgA5) [sage] 2018/01/27(土) 14:11:19.05 ID:/kmEsvOR0 実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸 高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ 1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキ やスギである。エムゾネ富士宮市の保存樹林に指定されている。・浅間 神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境内社富士浅間 七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、 彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊 ・伊弉エムゾネ冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2年(1913) に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、その後さら に鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真社殿の写真 図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317エムソ ゙ネ〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開 いたと伝えられている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂 で、富士山の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部 材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造エムゾネと考え られるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間 7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側 面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図社殿の図面 ・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝エムゾネの道者が垢離を とって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの長方形 で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みと なっている。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍 頭池湧水を引き、上の段から樋で落とエムゾネし垢離を取るようにして ある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石 像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあ り、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石 で囲んだ一辺5.3mの丸いエムゾネ石組となっている。丸い石組の前 に置かれた葛石には、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4年 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516881638/325
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 44 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.006s