[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)41【ダメ工作員】 (366レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
290: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)21:09 ID:R+otnx5v0(240/265) AAS
起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって
いた。吉田口は14世紀後半エムゾネには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世
紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18
世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自
殺)にあたって信者エムゾネの登山本道をこの吉田口と定めた。このた
め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く
の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂
を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
省18
291: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)21:16 ID:R+otnx5v0(241/265) AAS
西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻エムゾネ・金具を配して、それぞれの
時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社の支
配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の
管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に
は登山門があり、この神エムゾネ社を起点として富士山頂まで吉田口登
山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を
292: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)21:22 ID:R+otnx5v0(242/265) AAS
展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907年に東宮
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929
年の国宝保存法エムゾネ制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年
の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。19
53年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定
された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。196
2〜6エムゾネ3年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜
74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。19
81〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財エムソ
省18
293: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)21:29 ID:R+otnx5v0(243/265) AAS
遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを起源
とする神社で、古くエムゾネから富士山南麓地域の中心的神社であった
。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ご
ろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社
(興法寺)エムゾネとともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が
周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604
年エムゾネ現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造
省18
294: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)21:36 ID:R+otnx5v0(244/265) AAS
に袖廊・廻廊を附した。エムゾネ1950年の文化財保護法制定に伴い
、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、1970年、1
988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本
殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修
理等が行われたエムゾネ(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理
等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅
間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位
置すべエムゾネき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置され
るのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
省18
295: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)21:42 ID:R+otnx5v0(245/265) AAS
山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ
の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か
れている。1868エムゾネ年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は
分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。
ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山
の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行
296: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)21:49 ID:R+otnx5v0(246/265) AAS
ている。法エムゾネ的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行われた。
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され
る予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くと
もエムゾネ1524年には存在していた神社である。1707年、宝永
噴火により社殿は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1
823年に再建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)
の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行のエムゾネ一
環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化
財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
省18
297: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)21:56 ID:R+otnx5v0(247/265) AAS
における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河
口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。た
だし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事
を行っエムゾネており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経緯文
化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される
予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀エムソ
゙ネ初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、
富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。富士修験
の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が
省18
298: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:03 ID:R+otnx5v0(248/265) AAS
傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋
敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地
を流れる水エムゾネ路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から
奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。1768年に
建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが
確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小
佐エムゾネ野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家
住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧
外川家住宅では1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修
理・整備の経緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法のエムゾネ下
省18
299: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:09 ID:R+otnx5v0(249/265) AAS
みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843
年に富士講道者エムゾネによって再興されたとされる。法的保護、修理
・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点
在するエムゾネ小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅
間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
300: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:17 ID:R+otnx5v0(250/265) AAS
型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に、樹型に入
って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義エムソ
゙ネ付けが行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神
である木花開耶姫などが祀られている。法的保護、修理・整備の経
緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定
された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道エムゾネ者によ
って整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の
家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴に
ついては、古くから冨士山北口御師団が管理している。法的保護、
修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀エムゾネ念物保存法の下
省18
301: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:23 ID:R+otnx5v0(251/265) AAS
山の湧水を起源とする数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水
(エムゾネ日平均15〜16万〜)の噴出が数百条の白糸が垂れている
ように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の
文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地
とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となったエムゾネ。
また、景勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなってい
る。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明
三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「エムゾネ羽衣」の舞
台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に
省18
302: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:30 ID:R+otnx5v0(252/265) AAS
噴火はエムゾネ2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時
代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1
200年前から後には少なくとも800〜802年、864〜86
6年、937年、999年、1033年、1083年、1435エムソ
゙ネ〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確
認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流
出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために
、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国エムゾネ家の統
治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮める
ため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として
省18
303: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:36 ID:R+otnx5v0(253/265) AAS
になった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広
く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛ん
になった。登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か
らエムゾネ15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の
道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整
い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわ
たる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が
304: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:43 ID:R+otnx5v0(254/265) AAS
定し経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周
辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まった
とされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「エムゾネ富士講」と
呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が
登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」と
いう。)は原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を
経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈エムゾネ祷や宗教的指導を受
け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した
。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支え
省18
305: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:49 ID:R+otnx5v0(255/265) AAS
につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。
廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に
行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも影響をエムゾネ与えた
。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出したことや、これを
契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設
に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁
の影響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大エムゾネした。19世紀
末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上さ
せた。南麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900
年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
省18
306: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)22:56 ID:R+otnx5v0(256/265) AAS
定され、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦
後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道エムゾネ以
下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別
名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨
県は1978年(のち、1999年及び2006年に改定)、静岡
県は2006年に「特別名勝富士山」の保存管理計エムゾネ画を策定し
、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近
代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含
めた富士山に関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以
降、古社寺保存法(1897年〜1929エムゾネ年)、(国宝保存法
省18
307: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)23:03 ID:R+otnx5v0(257/265) AAS
。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であるエムソ
゙ネ富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の
祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装
飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。
山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝エムゾネが主催
した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士
山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作
308: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)23:10 ID:R+otnx5v0(258/265) AAS
(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存
最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧でエムゾネ、鎌倉画派の祖
とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟
子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本
を代表する水墨画家の作。水墨画によエムゾネる富士山の一典型作。静
岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍
した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(〜
)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよく
した。下辺に三保松原、富士エムゾネ山の左手に日輪を描く。22富士
省18
309: (ワッチョイ 560c-9lb2) 2018/01/26(金)23:18 ID:R+otnx5v0(259/265) AAS
け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原エムゾネ図屏風17
84装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応
挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図17
77秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。
江戸出府の折の作。洋風画派司馬江漢静岡エムゾネ県立美術館薩〜山富
士遠望図1804平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響
を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博
物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写
生的花鳥画を学び、また平賀源内エムゾネらを通じて蘭学に通じた。禅
画白隠慧鶴大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅
省18
1-
あと 57 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.090s*