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【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)50【ダメ工作員】 (373レス)
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(ワッチョイ 560c-EzTQ)
2018/01/29(月)19:17
ID:BdtTryWp0(139/227)
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191: (ワッチョイ 560c-EzTQ) [sage] 2018/01/29(月) 19:17:27 ID:BdtTryWp0 年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見 つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動 明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧 本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有 来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる 。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈 によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7 号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置 にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物 跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され 、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に 石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜 面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の 縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「 一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有 来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」 にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人 が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号 建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11 号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北 約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直 径約90?の丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1517147332/191
年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見 つかっている木が倒れた際に地面が掘り起こされ地中にあ った石像が地上に現われたと考えられるうち1体の不動 明王像には文化7年1810の銘がある背面には瀧 本前と刻まれておりここが富士山表口南面路次社堂室有 来之次第絵図でいう瀧本笹垢離跡であると推測できる 4体の石像には破壊された痕跡が確認できる廃仏釈 によるものと考えられるなお明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている8号建物跡7 号建物跡から北西に約220標高約2170の位置 にある中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物 跡の中で最も大規模なものである2つの平場により構成され 南西部の平場は東西約25南北約10である入口に 石段が残存しており石段の東西には石垣が組まれているま た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存し ているもう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜 面上に長軸約15短軸約6の三角形で北西側斜面の 縁と南側斜面の縁に石組が確認できる昭和時代の地図には 一ノ木戸として載っており富士山表口南面路次社堂室有 来之次第絵図に描かれた室大日堂木戸堂茶屋堂 にあたると考えられる室大日堂は大日如来と役行者像がら れていたとの記述が駿河国新風土記にありまた末代上人 が建てた往生寺があったところだともいわれている写真8号 建物跡の写真12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の うちで一番標高の高い位置約2390にある11 号建物跡から北に50の地点に所在する東西約8南北 約5の方形の区画が石組によって作られている東側には直 径約90の丸い穴が二つある同様の穴は他の
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