[過去ログ] 坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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105: Ann 2017/01/08(日)02:29 ID:Igrq1HLI(14/28) AAS
元より唯仏与仏乃能窮尽のものだ。
また師匠から伝授されるものでもなく、授けることもできない。
能伝所伝、能授所授をこえている。ただ我にある三昧我ただ知るのみである。
ならばこの妙奥に到達することが真の大悟ならば、もとから実感そのものの時期を予知することもできなければ、
その妙味をあれこれ言うこともできない。大悟は、自覚するときである。
門外に例をとって見てみると、古代ギリシャのデルハイ神殿の門に刻まれた、「Know thiyself」である。
この一言は実にギリシャ文化の精を尽くし微を窮めたものであり、
ソクラテスの智識であろうが、プラトンのイデアであろうが、
つまるところはこの「汝自身を知れ」ということの意義の発展であり、
拡充されたものに他ならないのだ。
また古今の聖哲の実感するところも、実感の企てはみなこの自覚の精神に他ならないのだ。
孔子三十にして立ち、孟子四十にして心を動かさずといわれたのも、畢竟ここにあるのだ。
詩人ワーズワースが山の端に飛び、散る雲を仰いでは、
武陵桃源の仙客となって秋の夕には咲き残った野菊の姿に涙を落とし、
また寒山が山の高く水の清い妙なる色に酔って、言葉で言えない天然の美に心を奪われたのも、これはみな詩的自覚である。
またニュートンが、物理に心を尽くして研究に余念がない折、風もないある日、
一つのリンゴが落ちるのを見て忽然として物理の奥義を極め、遂に引力を発見したように。
あるいはフランツ・アントン・メスメルが一日外にいて蟹を見て、突如として催眠術の原理を発明したように。
これはみな理学的自覚である。
またラーシュ・ケプレルが野に咲く一輪のタンポポの中に神の福音を悟ったように。
またルターが学位をもつにもかかわらず修道院に身を投じて僧となったのも、これは宗教的自覚があったからである。
蘇軾が渓声広長舌、山色清浄身と悟ったのも、宗教的世界観の自覚である。
今も昔も聖賢の実感したところ、また実験しようとくわだてたことは、すべてみな自覚の面影でないものはない。
参禅の士はだいぶ自覚の奥道に入ったようだから、さらに奥へ進んでみよう。
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