[過去ログ] ローマカトリック教会20170328 [無断転載禁止]©2ch.net (874レス)
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540: 2017/08/06(日)06:25 ID:MYirCcG5(1) AAS
AA省
541: 2017/08/06(日)07:27 ID:I44eDBiY(1) AAS
老クリさん、もう本当に長文コピペの連続は辞めてください。
スレの私物化に等しい行為です。
ある話題について、ついつい長文を連続投稿してしまったということではなく、
日常的になさっていますよね。
多くの人から辞めて欲しいと言われているのに、無視して長文コピペを連投しまくるという行為については、
荒らしと言われても仕方ありません。
確信犯ですから明らかな荒らしです。
荒らしではないと仰るかもしれませんが、スレの私物化であることは間違いありません。
そんなに長文コピペを続けることが、ご自身にとって大事なのでしたら、新スレを立ててください。
皆、本当に迷惑しているのです。
省1
542: 老クリスチャン 2017/08/10(木)10:21 ID:H4NhLrt7(1) AAS
2002年(主日A年) 8月11日 年間第19主日
王上 19:9〜13 ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
オムリ王朝時代の北イスラエルに侵入して来たバアル礼拝と最も激しく戦ったのが、ヤーウェの預言者エリヤでした。
その戦いの頂点として列王記上に描かれているのが、有名なカルメル山上でのバアルとアシェラの預言者たちとの対決の物語り(王上 18章)です。
オムリ王朝二代目の王アハブの妻となって、イスラエルにバアル礼拝を導入したフェニキヤの王女イゼベルは、カルメル山での対決でひとときの勝利を収めた預言者エリヤを見逃しておくはずはありませんでした。
エリヤは40日40夜歩き続けて、ついに神の山ホレブに逃れました。
そこはかつてモーセがヤーウェから律法を授けられた場所でした。
エリヤはそこでヤーウェに会い、主の言葉を聞くのです。
洞穴の入り口に立ったエリヤの前を激しい風が通り過ぎました。
「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。 ・・・・・ “エリヤよ、ここで何をしているのか。”」(王上 vv12-13)
省5
543: 老クリスチャン 2017/08/11(金)11:23 ID:05FWwgot(1) AAS
2005年(主日A年) 8月7日 年間第19主日
王上 19:9〜13 ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
五千人への給食の物語りが福音書の読者に最後の晩餐の場面を思い起こさせるとすれば、それに続いてイエスがひとり祈るために弟子たちと別れる物語りは主の死と埋葬を象徴しているように思われます。
残された弟子たちはもはや前に進む気力も失せて 「逆風のために波に悩まされていた」(マタ v.24)に違いありません。
しかし主は死者の中から復活して弟子たちのもとに帰ってこられました。
「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(マタ v.25)とはそれを指しています。
マタイ福音書が 13:54〜17:27 の部分に加えたいくつかのペトロに関する補充記事は、他にはない独特なものなのですが、教会におけるペトロの比類のない権威を支持するために捧げられています。
その第一のものがペトロが水の上を歩いた記事(マタ v.29)で、教会とは他のどの個人の信仰よりもペトロの信仰の上に建てられたのだという歴史上の事実が、象徴的に表現されています。
ペトロは、終わりまで師のそばにとどまろう、迫害、憎しみの暴風を耐えようと勇敢に申し出たのだが(マタ 26:33 参照)、勇気がくじけて沈み始める ・・・・・ 。 遂にイエスが彼を捕まえます(マタ v.31)。
その上に教会が建てられているペトロの信仰さえも、それ自体では一個のもろいものであり、彼自身の力量にではなくてキリストに依り頼まねばならない。
省3
544: 2017/08/11(金)14:51 ID:/MF7xDTQ(1) AAS
AA省
545(1): 老クリスチャン 2017/08/12(土)10:38 ID:pgIzxQ2p(1) AAS
2008年(主日A年) 8月10日 年間第19主日
王上 19:9〜13a ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
「彼らはイスラエルの民です。 神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」(ロマ vv.4-5)
第二バチカン公会議が、“キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言” という文書で、ユダヤ人とユダヤ教に対する過去の誤った対応を正すにあたって、この ロマ vv.4-5 を引用した(4)ことには重要な意味があります。
しかし、現代のキリスト者の中で、使徒パウロの言う “深い悲しみ” や “痛み”(ロマ v.2)を実感をもって共有している、そんな信仰が見られるだろうかと疑問に感じます。
主の受難の金曜日のミサ典礼書にある10の共同祈願の一つに、“ユダヤ教の人々のために” というのがありますが、これは使徒パウロの言う “深い悲しみ” や “痛み” に無理解なままでは、とうてい正しく祈ることの出来ないものです。
そして、現代のそのようなキリスト者と教会のありのままの姿を、このテキストは鋭く糾弾するのです。
私たちは聖書から、生きた神のことばを聞いているだろうか、現代の教会は神のことばによって日々刷新されているだろうかと、私たちは問いかけられているのです(神の啓示に関する教義憲章 21-26 参照)。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
546: 2017/08/12(土)10:43 ID:q5lGQKNg(1) AAS
>>545
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
省18
547: 2017/08/12(土)23:56 ID:MscsyFzm(1) AAS
AA省
548(1): 2017/08/15(火)09:29 ID:C2bNkTN6(1/2) AAS
今日は、8月15日は、聖母被昇天の日です。
終戦の日ではござません。
カトリック教会は宗教団体であり、信仰の場です。
終戦の日とかは世間に任せておけばよい。
憲法とか反戦とか、人間が作ったものを重視する連中は偶像崇拝の大罪を犯している。
そんなものは信仰的に重要ではない。
549(1): 2017/08/15(火)09:34 ID:C2bNkTN6(2/2) AAS
>>548 追記
世界の教会は聖母の被昇天を祝っているのに、日本の司教どもは終戦の日。
世界の教会は堕胎と離婚と同性愛に反対しているのに、日本の司教どもは臆病な沈黙。
日本の教会は異常だから絶対に信じるな!
550: 2017/08/15(火)09:39 ID:G0UD/T3s(1) AAS
AA省
551: 2017/08/15(火)16:28 ID:p0Amnpvm(1) AAS
クソジジイのように、相手の文面を読まなければ、言葉が尽きてくる
552(1): 2017/08/15(火)17:55 ID:jfdzlUL1(1) AAS
>>549
カトリックの国では、同性愛が認められて、同性婚も法的に認めている国も
たくさんあります。
553: 2017/08/16(水)01:28 ID:tEgHw/Ng(1) AAS
安倍政治を許さない
日本カトリック司教団のスローガンです
554: 2017/08/18(金)11:42 ID:Hec/zLPC(1) AAS
在日の新ビジネス ワンステップスクール伊藤学校
校長 廣岡政幸
> ご自身が在日韓国人であることを隠すことなくはっきりと明言されました
> 嘘だと思われるのでしたら廣岡政幸さんにお会いする機会があったときに伺ってみると良いです
815 :名無し専門学校:2017/04/23(日) 15:41:19.44
ネットの廣岡信者の主張を見ると、確かに無職/ニート/ひきこもり(ネトウヨ)
に対する、強い憎しみがあるみたい。言葉では更正を願ってるようだけど、
子供を入れたらいじめで殺されそう。
> 773 :名無し専門学校:2017/04/09(日) 12:54:01.39
> > 602 :名無し専門学校:2017/02/04(土) 05:45:15.08
省6
555: 2017/08/18(金)14:38 ID:rZIQYqbM(1) AAS
>ネトウヨ=無職・ニート・ひきこもり=社会悪
飯のタネ
556(1): 老クリスチャン 2017/08/19(土)15:47 ID:WJfdqhIE(1/3) AAS
2002年(主日A年) 8月18日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(ロマ v.32)
私たちのミサの開祭の部分にある “あわれみの賛歌” は、元来のラテン語のミサでもこの部分だけが、より古い時代の用語であったギリシア語のままで保たれています。
それ程にその由来の古い “あわれみの賛歌” がミサの中で占めている決定的重要性を、私たちは今朝思い起こしたいのです。
会衆一人一人の救いも、主の民である教会の救いも、その拠り所は私たちの救主イエス・キリストの憐れみにあることを、この “あわれみの賛歌” は表明しています。
この賛歌を初めに歌うことなしには、私たちのミサが成り立ち得ないほどに、それは決定的に重要な役割りを担っているのです。
異邦人であって、「生まれながら神の怒りを受けるべき者で」(エフェ 2:3)あった私たちを、「神は御子の血によって」(使 20:28)贖って、神の国の相続人(ロマ 8:17)としてくださいました。
ですから代々にわたって教会は、そのミサの冒頭の開祭から “あわれみの賛歌” を省略することはありませんでした。
“主人の食卓から落ちるパン屑” の恩典に与かる小犬のように、私たちもミサの中で主の御からだ(と御血)を拝領します。
省3
557(1): 老クリスチャン 2017/08/19(土)15:47 ID:WJfdqhIE(2/3) AAS
2008年(主日A年) 8月17日 年間第20主日
イザ 56:1,6〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
「主はこう言われる。 正義(mishpat)を守り、恵みの業(tsedaqah)を行え。 わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業(tsedeq)が現れるのは間近い。」(イザ v.1)
先ず、mishpat はこの世の人間的な正義ではなくて、神の行われる正義のことです。
そしてその次に、tsedeq と tsedaqah は同じ意味で(男性形と女性形)、新共同訳聖書では文脈に応じて “正義” “正しさ” そして “恵みの業” などと訳し分けています。
“正義” “正しさ” という場合には、それは律法の教えに聞き従う歩みのことであり(イザ v.6)、“恵みの業” という場合には、近づき来たりつつある神の救いの確かさ(イザ v.7)を指しています。
第三イザヤはここで第二イザヤの預言(イザ 46:13)を再び取り上げました。
このような ts-d-q の訳し分けの微妙さは、イザ 51:1,5-7 を見るとよく分かります。
51:1 の “正しさ”、51:5 の “正義”、51:6 の “恵みの業”、51:7 の “正しさ” は、すべて同じ ts-d-q なのです。
このような予備知識を持つと、イザ 56:1 の “恵みの業を行え” というやや強引な新共同訳聖書の翻訳の意図が見えてくるのではないでしょうか。
省5
558(1): 老クリスチャン 2017/08/19(土)15:48 ID:WJfdqhIE(3/3) AAS
2011年(主日A年) 8月14日 年間第20主日
イザ 56:1〜7 ロマ 11:13〜32 マタ 15:21〜28
「主よ、ごもっともです。 しかし、子犬も食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタ v.27)
私は以前、キリスト教のある教派では、このテキストをローマ典文の マタ 8:8 に合わせて “私たちはあなたの食卓の下でパン屑を拾うにも値しない者ですが ・・・” と読み替えて、拝領前の信仰告白に用いているということを、別のところで書きました。
この読み替えはたいへん示唆に富んでいて、今朝の朗読聖書から私たちが聞き取らなければならない大切な点を教えてくれるのです。
おそらくマタイ福音書の背景には、教会の内外におけるユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の葛藤がありました。
「まず、彼ら(ユダヤ人)は神の言葉を委ねられたのです」(ロマ 3:2)、「この救いの言葉はわたしたち(ユダヤ人)に送られました」(使 13:26)、「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(ガラ 2:15)などと併せて、
イエスの 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ 10:6 参照)という言葉の重みを理解しなければなりません。
そのような背景を十分に理解して始めて、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」 というイエスのお褒めの言葉の意味が分かって来るのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
省1
559: 2017/08/19(土)16:02 ID:lmz7Wvb+(1) AAS
AA省
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