[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 (1002レス)
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412: 2019/04/15(月)23:18 ID:wdfFbMx5(4/6) AAS
>>411 ありがとうございます。教団と言うのは一度話を聞いて良さそうだと思い何度か足を運び、余所へ行こうとすると地獄へ落ちると脅されます。
413: 2019/04/15(月)23:19 ID:wdfFbMx5(5/6) AAS
かと言って自分で修行は出来ません。信頼出来る所へ行きたいです。私も釈迦への帰依が大事だと思います。仏教を説いたのは釈迦お一人なのですから、それ以外を奉ずる所は避けています。
414
(1): 2019/04/15(月)23:33 ID:6kpDtZf+(11/11) AAS
瞑想したら地獄に墜ちるんだったら、日本の仏教史上の禅宗の坊さん
たち、全員地獄行きですね。

寝入りばなの最初の5分だけ瞑想してみるとか、週に一回だけ五戒を
守ってみるとか、そんな身近なところから始めてみるのも良いのでは
ないでしょうかね。
415
(2): 2019/04/15(月)23:41 ID:wdfFbMx5(6/6) AAS
>>414 少なくとも日蓮系はそう言ってます。瞑想修行は末法では出来ない、むしろ害であると。
五戒を一週間だけ守ると言う発想はありませんでした。ブッダはそれをお許しになるのですか?
また、瞑想は半跏趺坐の数息観でよいのでしょうか? 一度数息観をして体調を非常に崩してしまいました。
416
(1): 桃太郎 2019/04/16(火)00:31 ID:4a6EtvPH(1/7) AAS
>>396

>早く死にたい。全ての苦から脱することの出来る教えはありますか?

正直ありません。日本では毎年、2万人の自殺者が出ます。
あなたのように死が自身の苦悩から解放してくれるだろうと誤った考えに陥るからです。

仏法の本義は六道輪廻の娑婆世界からの離脱(解脱)ではなく、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」なのです。
生命は永遠であり、三世に渡り永遠にこの娑婆世界の中で生き続けるのです。
ゆえに、苦悩からの逃避ではなく、逆に苦悩を乗り越える教えを仏は説いたのです。

子どもの頃、夜も眠れない程の悩みでも、時が経てば大した事でもないと思えることがあります。
それは自分が大人になり、境涯が高まったからに他なりません。
省6
417: 2019/04/16(火)00:36 ID:2K+plDeX(1/6) AAS
みんな収入を何で得て生活しているの?
418: 2019/04/16(火)00:37 ID:nbwqA6S2(1/2) AAS
414じゃないけど
ミャンマーやタイの上座部でも短期間の出家があるし
一週間と区切ってやるのも大丈夫だと思うよ。
お釈迦様は自分で確かめろと言うくらいだから
出家前に少しずつ確認するのなんて全然ありでしょ。
しかし本当、お釈迦様が生きてたら
どんぴしゃな瞑想法教えて貰えたんだろうな。
当時生きてた人が羨ましい。
419: 2019/04/16(火)01:00 ID:bHvTZUUh(1/4) AAS
>>416 396です。ご解説お願いいたします。とはいえ生きる気力がありません。
何もしたいことが無く、まだ体力と気力が残っているうちに死ぬことが楽に思えるようになりました。
もちろん昔は死が怖く生きる張りもありました。今は消えたいです。
420: 桃太郎 2019/04/16(火)01:52 ID:4a6EtvPH(2/7) AAS
ギリシャ王メナンドロスとインドの仏教僧ナーガセーナの間で行われた問答
いわゆる弥蘭陀王問経(ミリンダ王の問い)として知られる仏典がありますが、この問答のやり取りを読めば
仏教の基本的概念である「無我」「縁起」「五蘊」そして「輪廻」の大まかな意味を理解出来るかと思います。

"自我と無我との対論"として一般にも名高い『ミリンダ王の問い』の考察の延長上にある
九識論ならびに真我の確立というテーマが現代の文明・社会に対して大きな警鐘と示唆を与えるかと思われます。
まぁ、あまり小難しい仏法用語を並べても分かり辛いでしょうから、仏典の内容を見てみましょう。

ちなみにウィキペディアによれば、ナーガセーナは紀元前2世紀頃のインドの仏教の僧と言うことですから
まだ、大乗仏教が成立するかなり以前の初期の頃の部派仏教僧であると思われます。
しかも、その論理展開がアビダルマ的分析法に従っているのでゴリゴリの小乗教徒であった事は確かです。

さて本題に入ろうかと思いますが....。
省3
421: 2019/04/16(火)07:58 ID:THLMS4Zo(1/2) AAS
ナラワタナ
422
(1): 2019/04/16(火)08:26 ID:dMDnsA+Y(1/5) AAS
>>409
どこに「スマホ」なんてものがあるのか。どこに「私」なんてものがあるのか。
目に飛び込んできた四角い形、ツルツルした肌触りに対して勝手に「スマホ」と名前をつけただけ。
現実にあるのは視覚と触覚の生滅の連続。それには最初から名前は付いてない。
私も同様に、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、思考の生滅の連続に過ぎないのに、それに勝手に自分と名付け、
「私は善い人間だ。価値がある。」「私は悪い人間だ。価値が無い。」などと妄想して苦しんでいるのが凡夫。

瞑想して無我を体得すれば、私というものを妄想しない、勝手に作り出さない、眼耳鼻舌身意をそのまま放っておくことができる。
私というものが無いので、私が生老病死する事もない。一切の苦しみから解放される。それが解脱と呼ばれる。
423
(3): 2019/04/16(火)10:26 ID:wmBLDT3k(1/2) AAS
でも病気になったら痛いし苦しいよな?
これは私ではないから痛くないし苦しくない
ってなるか?
実際にがんになっても一切の苦しみから解放されるか?
424: 2019/04/16(火)11:03 ID:hVtN5f+u(1/2) AAS
瞑想者が脳波を競うマインドフルネス・バトル開催! 世界最静の「瞑想バトル」誰にもこの解脱は止められない!
外部リンク[html]:tocana.jp

どうぞ
425: 2019/04/16(火)11:59 ID:2G2RosR7(1/7) AAS
>>415
例えば、これまで全く五戒を守れなかった人がいたとして、
月に一度だけ、週末だけでもお酒を飲まずに五戒を守ってみる。
これは立派な戒学増上だと思います。

そのうち、週に一度にしてみる。
土日の二日間にしてみる。
いずれ、毎日守ってみる。
いつかお酒を飲んで五戒が破れてしまったら、それでも諦めずに
改めて五戒を守る。
これも立派な戒学増上だと思います。
426
(2): 2019/04/16(火)12:06 ID:2G2RosR7(2/7) AAS
>>415
慈悲の瞑想から始めてみてはどうでしょう。

ところで、念仏や題目も瞑想の一種だと思いますけどね。
或いは、お経を読む行為も身口意の三業を形成しますから、
その業果は(長い輪廻のいつかどこかの段階で)いずれ返って
くるはずです。
427: 2019/04/16(火)12:09 ID:2G2RosR7(3/7) AAS
いますぐこの場で解決したければ、いますぐ八正道に全力投球すれば(できれば)
いますぐ苦から解放されると思いますよ。

数息観でもアナパナでも、マハシ式ヴィパッサナーでも同じです。
全身全霊で気づきを保ってみれば、絶対わかるはずです。
428: 桃太郎 2019/04/16(火)12:45 ID:KLX37ReG(1) AAS
>>422

それは「無我」の解釈の仕方が仏法本来の本義とは違っているよ。

現実は>>423の言う通りであり、「心頭を滅却すれば火もまた涼し 」なんていう諺をリアル行うことなど
現実には出来ない事なんだよ。現実から乖離した観念論は、人を惑わし、何の価値も無い。
何より現実の苦悩から目を背けても何一つ解決はしないではないか。

仏法は事象を在りのままに見る「諸法実相」の立場を取るのです。

「諸法実相」とは
すべての存在・現象の真実、ありのままの姿のこと。
「諸法」とは、この現実世界において、さまざまな様相をとって現れている、すべての現象・物事のこと。
「実相」とは、真実の姿、究極の真理のこと。仏がその広く深い智慧で覚知した万物の真実の姿が、諸法実相である。
省4
429: 2019/04/16(火)12:47 ID:hVtN5f+u(2/2) AAS
>>426
お念仏、お題目=慈悲の瞑想ではないでしょうか
マインドフルネススレだと同意してくれる人が少ないのですが
お念仏、慈悲の瞑想、観察の場は同じものだと感じます
それは自力ではなく他力なのです

一昨日、山下良道さんが同じようなことを言ってました
仏陀、阿弥陀如来、イエスなど他力に帰依しない限りマインドフルネスは不可能だと
全く同意です
430
(1): 2019/04/16(火)13:09 ID:dMDnsA+Y(2/5) AAS
>>423
例えば、怪我で長い間練習できなかったボクサーが、怪我が治って練習を再開すると、殴られる痛み、息が上がる苦しみが嬉しくてしょうがなくなる。
普通の人は、痛み苦しみを嫌って怒り、悲しむ。
仏道修行においては痛み苦しみをありのままに観察し、それらに対して平静、冷静に気づき続ける。それをヴィパッサナー瞑想、実践という。
ヴィパッサナー瞑想では、痛み苦しみだけでなく、全ての感覚に執着しない。なぜならそれらは無常、苦、無我であるから。

無我に達した人の体にも、痛み、苦しみなどの感覚が発生するが、その人は感覚に対して何の感情も抱かない。
喜ぶのでもなく、悲しむのでもない。痛みがある。苦しみがある。それでおしまい。最後の体が無くなるのを待っている。
431: 2019/04/16(火)13:22 ID:dMDnsA+Y(3/5) AAS
>ヴィパッサナーは「今という瞬間に完全に注意を集中する」実践です。何をしていても、「今・ここの自分に気づいていく」こと。
>それが、ヴィパサナーです。自分を客観的に「よく観る」のです
>今ここの一つ一つの瞬間に意識を向ける。心地よいことでも不快なことでも、ありのままの体験を価値判断しないで、そのまま観るのです。
>葛藤をシャットアウトしたり、コントロールしようとして新たな問題を作るのではなく、ただ気づくだけ。それが観るということです。
>それが苦悩を超える道です。安らぎが訪れ、心と体を癒すことになるのです。
>波立っている水面が穏やかになってすべてを映し出すように、深い智慧と洞察力が生まれてくるのです。

初期仏教の世界 ー ヴィッパッサナー瞑想
外部リンク:j-theravada.net
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