[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16 (1002レス)
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970
(4): 2019/06/06(木)00:03 ID:a7hL1GzH(1) AAS
 
外部リンク[html]:pao.hamazo.tv

無常・苦・無我を観る

生じては滅し、生じては滅しを繰り返しています
そういう「現れては滅して」を観て「無常」を知ります

縁によって変化だけを続けていることがわかり

省9
972
(1): 2019/06/06(木)00:15 ID:dRnuAnrs(1/3) AAS
>>970
その議論のソースを確かめてみないと判断できないけど、
両者が使っている「認識」という言葉の定義が違ってる可能性はないですか?

あるいは別の角度から言うと、お釈迦さまや阿羅漢の涅槃証悟は、果たして
「認識がない」という体験だったのかどうか。

お釈迦さまの感興の言葉なんかには、みたというニュアンスの表現で溢れて
いたような気がするのだけど。
認識というのは言葉としては、主体(主語)を想定する言葉だけど、悟りは無我
らしいから、言語として表現した時に、真逆の表現で同じことを言ってるという
事態はあり得るのかも知れない。
974: 2019/06/06(木)02:25 ID:f+eHTTEs(1/4) AAS
>>970
認識できる、認識できない、と言うときに
はたして「誰」にとってのことなのか、というところでつまずく
両者とも、「涅槃がある」ということについては異論はないとは思うが
心に起こる現象を言語で表現しようとするときに難しさが発生する

せっかく「わたし」を手放したのに、言葉にするときには「『わたし』を手放していない世界」に戻ってこなければならない難儀さ
おまけに話しても伝わらないし
983
(1): 2019/06/06(木)17:01 ID:68Nul4Ds(1) AAS
>>970
認識出来る
そう
認識しているものは、何か

重大問題
993: 2019/06/07(金)14:34 ID:NdQlxLR9(1) AAS

>>970
>>972
>両者が使っている「認識」という言葉の定義が違ってる可能性はないですか?

ふ〜む =^・・^= わかりゃんけど.とりあえず

外部リンク:suttanipata.com
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
省12
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