[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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271: 2021/03/06(土)00:28 ID:Xfnw7Y9I(1/2) AAS
涅槃とはいわず悟りと言わせてもらいますけど
悟りとは一過性の体験なのでしょうか?
それとも永続的に体感できるものなのでしょうか?
また、体験ではなく、自転車に乗るように覚えているものなのでしょうか?
知識ではないことは理解できますが、知っていることなのでしょうか?智慧?
大乗では竜樹の影響で諸法実相が説かれます。
悟りをうると世界がこう見えるといった具合に。
でもテーラワーダでは十二因縁の基本に忠実であろうと思われるので
無明を破することになると思うのですが
無明が破れたあと六感はあると思うのですが具体的に以前とどう変わるのでしょう?
省2
272: 2021/03/06(土)01:04 ID:Xfnw7Y9I(2/2) AAS
外部リンク[pdf]:myanmarbuddhism.info

ここに書かれているテーラワーダの方は
仏の徳性について熟考せよと書かれています。
大乗では観仏三昧が説かれます。
学者の間では、仏滅後ブッダを思慕する思いの強さから
そういった傾向が生まれることになったとされていますが
ここで書かれているテーラワーダの方は
大乗の影響から逆輸入的に仏の徳性を熟考せよと言われたのでしょうか?
テーラワーダにも大乗の教えが逆輸入された、もちろん鵜呑みしているわけではなく
使えるものを効率的に選んでやったと思われるものがありますが
省1
273: 2021/03/06(土)01:54 ID:0ZlUbHsD(2/4) AAS
大乗の影響は知らないですがそもそも念仏とは仏陀の執着の無さや徳性に対して自分もそうであろうと念じることみたいな話は聞いたことあります
それが大乗においては真言や観想などになるのでしょうけどテラワダにとっては仏陀のように無執着無分別であろうというひとつの実践の形なんじゃないでしょうか
真言や観想の瞑想は基本的に何らかの状態への集中瞑想ですが、状態に捉われず無執着であろうとすることは観察瞑想になるのでその点は違うと思います
274: 2021/03/06(土)02:07 ID:0ZlUbHsD(3/4) AAS
悟りは預流果から阿羅漢まで幅が広いので預流果で起こる有身見が断たれた段階の話をするなら
涅槃は一過性のものではもちろんないですがそれは永遠でもなく体験でもないですね
何故なら体験はどんなものであれ現われたものであり消えるもので無常だからです
そういう意味では永続的なものとも説明できますが一過性と永続というものを相対的に捉えてる上での永続的なものとはまた違います
誰かが永続的と考えるときそれは一過性のものに対して考えるわけですがそのように何かに対してどうであるという相対的なものではありません
本当に相対的でない永続したものとして明らかになると永続ですらありません
それを何だと言うことはできないのです
そして憶えることもできず明らかになっています
憶える忘れるということではないからです
実際はわかってないという状態が現われているだけで誰しも今すでにわかっていることです
省4
275: 2021/03/06(土)02:23 ID:0ZlUbHsD(4/4) AAS
悟り(涅槃)に関しては説明する者によってそれなりに説明の仕方が変わると思います
なぜかというと説明する内容も説明する主体もいない状態を説明するのに自分という視点を仮定して説明するのでそれ次第になるわけです
またそのせいでもあると思いますが預流果より先の段階に関してはテラワダの派によって意見の違いなどもあります
ジョーティカ師の本も読まれているようですがそれぞれの師や本や経典の説明を比べて参考にされるのがよいかと思います
276: 2021/03/06(土)12:42 ID:hJH/wrJT(1) AAS
>>16
さらに言うと、悟ってしばらくは釈迦も小乗的だった
しかし晩年になるに従って、特に女性の出家を認めた辺りで、すっかり大乗的になった
これはアーナンダの功績も大きい
277: 2021/03/06(土)13:24 ID:UEWaW+n5(1) AAS
>>247
> 預流果 - 見道のそれらの煩悩を断じ終って

倶舎論とか唯識(?)は知らないけど、断じ終わっているのは、見道の煩悩(見惑)じゃない
見道とか修道とかあったと思うけど

地獄に落ちるような欲や怒りもなくなるはずだけど
テーラワーダの説明で聞いたことあるのは、一来果で貪瞋が薄くなって
不還果で欲界への執着(貪瞋も)がなくなるとか

見惑
外部リンク:kotobank.jp
> 〘名〙 (「惑」は煩悩(ぼんのう)。見道で断ぜられる煩悩の意) 仏語。倶舎宗では、仏教の根本真理である四諦(したい)の理に迷う煩悩のこととし、唯識宗では、よこしまな教えを受けておこす後天的な煩悩をさし、天台宗では、修惑(しゅわく)とともに空観によって断ぜられる煩悩とする。けんなく。
省6
278: 2021/03/08(月)08:00 ID:ufNBpJx5(1) AAS
学会三世で、座談会とかは子供の時に一回行った程度で仏壇に手を合わすとかもなかった
家族亡くしてからショックで、半年かもうちょっとかな、まともに読んだことのない方便品第二と寿量品16を日に二回あげ
学会とは関わらないままながら、池田の前の会長の戸田の書いた本が家にあったので読んだりしてたが、なんら響くものなく
読んでる経の解説と講義の本も読んだが一切響くものなく
ただ、良医が毒に侵され頭おかしくなった子供たちに薬飲ます方便として「父は死んだ」と嘘をつくたとえ話のとこは
「俺が愚かなので、あるのが当たり前と思って亡くしたので、ショックを受けてこうやって苦しんでる」と、これが仏縁となって信心となって俺は救われるのかなぁ? 救われたい
ってまったく苦しいままで、なんとなくブッダの言葉スッタニパータ読んだら
こっちこそが目指すもので、題目や念仏、それは俺の苦しみを軽減しないってすぐに気づいた
瞑想して、ブッダの言葉に書かれてる言葉について、発見という表現はおかしいけどブッダが言っている通りだと納得することが何度かある
でもまあ、全然精進が足らないでまだ苦しいままだわ
省1
279: 2021/03/08(月)22:06 ID:/lh2jgnj(1/2) AAS
称名念仏はもともと観仏の劣化版だからね
心が落ち着かない人のために精神集中できなくても
言葉を称え続けるだけでいいよと言ったのが始まり
だから悪人正機、悪人(救いようのない人)が相手の教えと言われ
易行(誰でもできる簡単な行)であると言われる。
仏の教えが衰退してくる末法にはこれしかないと言われて
庶民に広がった。だけど今のようにテーラワーダの教えが
ネットでも見ることができて僧が日本に簡単に来れる時代にあっては
あまり意味がないのかもしれない。
280: 2021/03/08(月)22:15 ID:/lh2jgnj(2/2) AAS
日蓮の題目は念仏のパクリ。
簡単に言えば天台智??が五時教判で法華経最強と言ったのをうけて
あとは念仏をパクって法華経のお題を唱えれば仏になれるといった
あとは国内の密教を排斥するために密教の教えをパクったりした。
日蓮の教えは経に明確な根拠はなくて
ほとんど日蓮の独自解釈なので仏教とは言えない。
教判というのは教相判釈の略で中国仏教で発達した考え方。
中国では大乗上座部たくさんの経が一斉に流入したので
どれが本当に重要な経か判断するためにものさしが必要になった。
それが教判。大乗が大量につくった後だしの経が
省1
281: 2021/03/09(火)07:42 ID:CUue+V3R(1/4) AAS
>>16
> どー見てもその振る舞いは菩薩行そのものだと思う。

というより
仏陀が悟った内容は大乗的な汎用的なものだったから、
自然と悟った内容が大乗的な方向へ歩き出して行って、
釈尊も「おおぜいの人人には理解してもらえないでしょうけどねえ」と思いつつも、苦しんで熱心に教えを請う人々の要請に従ったのだろう
282: 2021/03/09(火)07:43 ID:CUue+V3R(2/4) AAS
△要請に従った
〇要請に従った
283: 2021/03/09(火)07:43 ID:CUue+V3R(3/4) AAS
△要請に従った
〇要請に応えた
284
(1): 2021/03/09(火)08:43 ID:wwaV7C4C(1/2) AAS
テーラワーダにも、サマタ(集中瞑想、種類がたくさんあって、念仏もそこに入る)
あるから、宇宙仏と一体になりました的な救済方法が無いこともないと思うよ。

ただ、法華経こそが、釈迦の本意と言うのは明らかに、後世の後付。

ヴィパッサナー(観察瞑想)が釈迦が発見した涅槃へ至る道であると思う。
二度と生まれ変わらない境地とか、特定の煩悩が完全に落ちるとか、そちらじゃないと
無理だと思う。
285: 2021/03/09(火)19:51 ID:CUue+V3R(4/4) AAS
>>284
宇宙仏と一体救済方法はヨガ派で、ゴーダマ派ではないですよね
286: 2021/03/09(火)20:33 ID:wwaV7C4C(2/2) AAS
サマタ瞑想が、ブッダが最終的な解決にはならないと言ってる部分はあるね。
287: 2021/03/09(火)20:58 ID:LfG2oGYP(1/4) AAS
浄土門にも奢摩他(サマタ)・毘婆舎那(ヴィパッサナー)という単語はでてくる。浄土論註がそれ
だが、テーラワーダのような意味でのヴィパッサナーという感じではない。
まあサマタは止、ヴィパッサナーは観という程度の認識はあるし
テーラワーダでのウィばっさなーの方法も知っているらしいのは
うかがえるんだが
止は作願門、観は観察門(門とは教えという意味)で
それぞれ往生を一心に願うことと、浄土を観ずることとされる。
心身の心の動きを受動的に観ていくテーラワーダのヴィパッサナーと
くらべて、浄土門では能動的に見たいものを見ていくのをヴィパッサナーと解釈している節がある。
288: 2021/03/09(火)20:58 ID:GIGmJpQ1(1) AAS
そもそも仏教のサマタ瞑想は宇宙仏と合一するためのものではない
289: 2021/03/09(火)21:08 ID:LfG2oGYP(2/4) AAS
法華経は不思議な経。
具体的な修行方法が書かれていない。
あらゆる衆生の成仏がとかれていて
いずれみな成仏するとされている。
そしてそれはすごいことだと繰り返し書かれていること。
で、この経を広めたり取得したり写経したりすると
功徳があるとしていること。
衆生済度をもてはやし、それが目的化してしまったのが
このお経。
言うなれば、医学はすごい。医学を広めればみんな死なずに済む。
省2
290: 2021/03/09(火)21:20 ID:LfG2oGYP(3/4) AAS
テーラワーダの教えが脈々と受け継がれているミャンマーだけど
共同体が崩壊していっているところもあってそこでは大乗的に
在家を救おうとしているお坊さんもいるらしい。
そう考えると法華経をつくった人たちを一概にバカにできるものでもないと思う。
サンガも共同体だけど彼らを布施によって支えているのも共同体。
欧米の市場社会がこれから浸透していけばもしかしてサンガが
崩壊することも覚悟しなければいけないかもしれない。
ちょうど日本でテーラワーダが遅々として根付いていかないように
彼らを支える日本の在家が、日本の共同体が確固として確立されない
かぎり仏教の存続は難しいかもしれない。
省2
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