[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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107
(1): 2020/12/27(日)03:33 ID:Km4ixu/5(1) AAS
>>105
達成した人という私のイメージは
大乗仏教を体現した人という意味です
大乗は生の喜びに
満ち溢れているということだったので
例え自分の子供を不注意で死なせてしまっても
私たち側には理解できないような
一般の仏教に関わりがない人とは違う
そういう克服法や境地があるはずです
悟りに達して克服するのは簡単ですが
省18
108: 2020/12/27(日)06:08 ID:AqtmOqn3(1) AAS
言葉の捉え方が表層的ですね。
大切な我が子を過ちで死なせたら、
悲しむのは当たり前でしょう。
こういうときに喜ぶ人はいません。
生きる喜びの意味を捉え損ねている
ようですね。テーラワーダの教えに
囚われているからそうなるのです。
大乗を生きている大勢の人達は、
悲しみます。悲しみそのものに
なります。敢えて言うなら、
省3
109: 桃太郎 2020/12/27(日)09:34 ID:6eU24R+D(3/6) AAS
>>107

法華経に於いては、一切衆生の胸中の「仏界」認めているので、仏法者だからといって
特別な人間ではありません。どっちが「偉い」とか「格が上」だとかいうのもありません。
まず、そういう事を主張するような人間は仏法がよく分かっていないインチキ仏法者です。

本当の仏法者は不軽菩薩(釈尊の過去世における修行の姿)のような菩薩です。
彼は会う人全てに対して、
「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」(法華経557?)
という二十四文字の法華経を説きました。

本当に偉大な人間は、仏法者である、無いにかかわらず「衆生を愛し守る」という働きをします。
この様な方々を「菩薩」と言うのです。なので、「エリート」という表現はちょっと違うような気がします。
省13
110: 2020/12/27(日)17:14 ID:ZLHc7hzH(1) AAS
> 比丘たちよ、〔サーリプッタとモッガッラーナという〕弟子たちの希有なることよ。
> 比丘たちよ、〔サーリプッタとモッガッラーナという〕弟子たちの未曾有なることよ。
>
> 彼らが師の教説の成し手たち、教誡による対治ある者たちとなっていれば、四衆によって可愛、可意の、尊重、尊敬されるべき者たちとなっていたことでしょう〔から〕。
>
> 比丘たちよ、如来の希有なることよ。比丘たちよ、如来の未曾有なることよ。
>
> かくのごとくの弟子二人組が般涅槃しても、如来に愁憂も悲泣もないのです〔から〕。
>
> 比丘たちよ、どうしてここに、それ(死別しないこと)が得られるでしょうか。
省3
111
(1): 2020/12/27(日)17:30 ID:jnsz41UV(1) AAS
たくさん答えて頂いて感謝します
ということはですよ
特別に宗教や信仰を持たない
普通の人が困難に向き合ったり
家族や友人の支えで立ち直ったり
まあ例えばキリスト教でいうと
困難も神の思し召しと捉えて
克服するのとあんまり変わりがない
そう捉えていいのでしょうか?
例えば南無妙法蓮華経の場合は
省4
112: 桃太郎 2020/12/27(日)21:20 ID:6eU24R+D(4/6) AAS
>>111

「一切の法は皆是れ仏法なり」です。

また、日蓮大聖人は「智者とは世間の法より外(ほか)に仏法を行(おこなわ)ず」と仰せです。

智者とは、世間の法から外には出ない。真の宗教は、社会の真っ只中で勝ちゆく源泉なのです。

世界的な経済学者のサロー博士は言います。
「宗教は、社会の向上のために活動する使命がある。社会を離れて宗教はない。社会に対して何の貢献もせず、
聖職者が供養を貪(むさぼる)るならば、懶惰懈怠(らんだけたい)の姿と言わざるを得ません。」
省9
113: 桃太郎 2020/12/27(日)21:20 ID:6eU24R+D(5/6) AAS
その理由は、末法の法華経たる日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」の功徳が言語を絶するほど絶大だからです。

法華経はもともと、末法の「本未有善」の衆生(過去世に仏縁の無い衆生)を救済する為に説かれた法門です。
過去世に仏縁のあった衆生は釈尊の法華経(法華経二十八品)によって悉く救済されました。
ゆえに、現代に於いては釈迦の法華経では無く、「南無妙法蓮華経」を修行することになります。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
※つまり、釈尊自身が行ってきた、様々な修行の功徳は「南無妙法蓮華経」の中にすべて収まっていると言うことです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この経の信心と申すは少しも私なく経文の如くに人の言用ひず法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ、
仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申し候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、
省10
114: 桃太郎 2020/12/27(日)21:45 ID:6eU24R+D(6/6) AAS
つまり、簡単に言うと、今世に於いて、さほど法華経の意義を知らなくとも
一生のうちに、戯れにただの一遍でも「南無妙法蓮華経」と唱えたならば、今世のみならず、来世も三悪道に墜ちることは無いと言うことです。
さらには唱えた時点で仏縁を生命に結ぶことになるので、生まれるたびに仏法に巡りあえ最後は仏になることが確定するのです。
それほどすごい法門なのです。

このすごい法門を実践するとどうなるのかは、創価学会の公式HPをご覧になって下さい。
正直私個人の考えは、凡夫であるから、死んだ先の事などわかりません。
しかし、人々の幸福のためこの人生で何か役に立てることが出来たと言うだけで大満足です。
何もしないで後悔するより百万倍有意義な人生だと思っております。
115: 2020/12/27(日)22:36 ID:wP46vUzI(1) AAS
思う思うと思いの話ばっかりだね
思いは生じ滅するもの
無常
116: 2020/12/27(日)23:20 ID:UCGIZFKS(1) AAS
涅槃への道は、悟りと解脱が分かる人には分かる。
分からない人には、生天と福徳の道がある。
それだけのこと。

おわり
117: 2020/12/28(月)07:40 ID:2qFtHhcV(1/3) AAS
小乗では真の救いにはなりませんよ。
四法印は途中の真理です。
仏法は諸法実相を生きることですよ。
118: 2020/12/28(月)11:07 ID:ujcrcsff(1/4) AAS
仏陀が教えた直接の教えを小乗呼ばわりしている時点で、人に教える資格はない。
119: 2020/12/28(月)11:08 ID:ujcrcsff(2/4) AAS
サマヤ戒(大乗戒)を毀損しているので、大乗ですらない。
120
(1): 2020/12/28(月)12:24 ID:2qFtHhcV(2/3) AAS
意味が全くわかりません。
テーラワーダは小乗なのですか。
小乗は歴史的に消滅した教えです。
今は存在しないと思いますよ。
消滅した小乗は仏陀の真の教え
ではありません。
仏陀の方便を曲解したものです。
もう一度書きます。
テーラワーダは小乗なのですか。
121: 2020/12/28(月)12:28 ID:ujcrcsff(3/4) AAS
>>120
糞みたいな屁理屈で誤魔化すんじゃないよ。
122
(1): 2020/12/28(月)12:56 ID:2qFtHhcV(3/3) AAS
テーラワーダを信仰すると
そのような言葉遣いになるのですね。
とても悲しいことです。
ところで、テーラワーダは
小乗なのですか。
ご存知ないのですか。
123: 2020/12/28(月)13:02 ID:ujcrcsff(4/4) AAS
>>122
他の人間たちはどうだか知らないが、そういう陰険で陰湿な嫌がらせに
黙って耐えているだけの人間ばかりだと思っているなら、大間違いだぞ。
小賢しい。
124: 桃太郎 2020/12/28(月)17:01 ID:+57vvOp9(1/3) AAS
小乗教ではそもそも凡夫が「仏」になれるわけがない。
だから阿羅漢の境地を目標に修行して一切の苦から逃れようとする教えです。

それに対し、大乗教は釈尊と同じように菩薩行を通じて「仏」の境涯を目指す教えです。
仏は基本的に「菩薩」です。なので「菩薩仏」と言ったりします。
つまり、菩薩行を離れて「仏」は存在しないのです。

小乗教は世の中の不幸、人の苦しみに無関心です。
ゆえに修行に於いては自分の救済のみ考えていれば良いのです。

そのような自己中心的な教えが「慈悲深い釈尊の本意であるわけが絶対に無い」としたのが大乗教です。

大乗教は、苦悩の民衆の中へあえて飛び込んで広く仏法を説き、人々の胸中にある仏の生命を覚醒させ救おうとするのです。
125
(1): 桃太郎 2020/12/28(月)17:01 ID:+57vvOp9(2/3) AAS
>>80 のレスをテラワダ信者は支持してるようです。
>そもそも、世間とか、一般社会人とか何なんですか?頭の中に有る妄想ですよ?
>自分が治まればこの世の中のすべてがピタリと治まるんです。

私は、これほど荒唐無稽な教えはないと思っております。
もし、釈尊が「自分以外は実態の無い「頭の中に有る妄想」」であると思っていたのなら、弟子は必要なかったでしょう。
膨大な教えを説く必要もなかったはずです。
なんたって、一切の煩悩を断じ尽した釈尊です。きっとその時点で「この世の中のすべてがピタリと治まった事でしょう」

釈尊を信じテラワダを信奉する側も同じです。
「自分以外は実態の無い頭の中に有る妄想」のなら、教えを説く釈尊も「頭の中に有る妄想」な筈です。
「妄想の釈尊」が説く「妄想の教え」は、なぜ「真実」と言えるのでしょうか?
省9
126: 桃太郎 2020/12/28(月)17:05 ID:+57vvOp9(3/3) AAS
>>106 
私の質問ですが、
どなたかテラワダを代表して答えてくれる人はいませんか?
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