[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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(1): 桃太郎 2021/04/09(金)10:56 ID:4mz3sH6w(2/7) AAS
舎利弗は千二百の羅漢の中に智慧第一の上首の大声聞、閻浮提第一の大智者である。
肩を並べる人はいない。
このような極位の大阿羅漢ですら、なお成仏の望みを遂げられなかった。

<法華経>に曰く
爾(そ)の時に世尊、三昧(さんまい)より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、
諸仏の智慧は甚深無量なり。其(そ)の智慧の門は難解難入なり。
一切の声聞・辟支仏(二乗)の知ること能(あた)わざる所なり。

ところが、テラワダ信者は凡夫でありながら、世俗を離れるわけでも無く、恵まれた環境で、美味しいものを食べ
テレビを観たり、音楽を聴いたり、オタゲーを楽しみ、ネットサーフィンで遊ぶ。

その合間に目をつぶって、さあ「瞑想だ!」

「あれ?俺、悟っちゃったぜ!マジで!」

みたいな妄想で自己満足している。

仏法をどんだけ軽くみているのだろうかと思う。

「智慧の門」とは、仏の智慧の世界に入るための門です。仏が種々の教えを説くのも、この智慧の世界に入らせるための手段でした。

仏は法華経以前に、人々の種々の機根に応じて種々の教えを説いた。
「人生は苦である」「一切は無常である」「煩悩を滅却すれば安楽である」「縁起を悟れ」等々。

 このように、衆生の種々の機根に応じて適切な教えを説くことは仏の智慧によるものです。

しかし、個々の教え自体は仏の目的ではなかった。目的は智慧の道、成仏の道に入らせることにあった。
 声聞や辟支仏(縁覚)の二乗の智慧では、その仏の目的が分からない。

教えの内容自体は一応、理解できても、何のために説かれたのかということが分からないのです。
無常観とか煩悩の滅却などの個々の教えに満足して、それを説いた仏の智慧の世界そのものに入っていけない。
いわば門の前で止まってしまう。ゆえに「難解難入」と説かれているのです。
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