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【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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685
: 2021/05/10(月)10:50
ID:NarRHbBx(1)
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685: [] 2021/05/10(月) 10:50:34.33 ID:NarRHbBx 「坐」より「禅」が重要だという人がいますが、本来の坐禅は一つです。 身(姿勢)と心(境地)、修行と悟り、これらが2つに分かれる以前にあるものが坐禅です。 それを二つに分けてしまったのが天台の「止観(しかん)」です。 道元禅師の時代に日本にあった坐禅は、この「止観」の方法ですが、それに行き詰まった道元禅師は中国に渡り、やがて本来の坐禅(二つに分かれる以前の坐禅)に出会い、それを日本に伝えました。 今年の五月の「大人の修行」にも書きましたが、天台宗にあった「摩訶止観」や「天台小止観」の教えは、道元禅師が中国から帰って書かれた「普勧坐禅儀」よりボリュームは比べられないほど大きいですし、中身も深いと言わなければなりません。 では、道元禅師はどうして「止観」を捨て、「只管(しかん)打坐(たざ)」を説いたのでしょうか。 それは、坐禅を「止(し・身体がじっとしている姿)」と「観(かん・心が覚めて真理を見極めること、思量すること)」に分解して実践しようと思っても、実践できないからです。 現に天台の学僧たちは「止」を次元の低いものと見なし、「観」ばかりを強調してきましたから、その「観法」は空洞化してしまい、やがて本物の坐禅は伝わらなくなりました。 今の南方仏教でも坐禅の実践方法として「サマタ(止)」と「ヴィパッサナー(観)」の二つがありますが、同時に行うのではなく、10日間の接心で「サマタ」だけを修行する人もいれば、専ら「ヴィパッサナー」に従事している人もいます。 こうした偏った「修行」が釈尊の菩提樹下の坐禅と関係がないのは、いうまでもありません。 https://antaiji.org/ja/dharma/okumura-mind-and-zazen/ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1607853920/685
坐より禅が重要だという人がいますが本来の坐禅は一つです 身姿勢と心境地修行と悟りこれらが2つに分かれる以前にあるものが坐禅です それを二つに分けてしまったのが天台の止観しかんです 道元禅師の時代に日本にあった坐禅はこの止観の方法ですがそれに行き詰まった道元禅師は中国に渡りやがて本来の坐禅二つに分かれる以前の坐禅に出会いそれを日本に伝えました 今年の五月の大人の修行にも書きましたが天台宗にあった摩止観や天台小止観の教えは道元禅師が中国から帰って書かれた普勧坐禅儀よりボリュームは比べられないほど大きいですし中身も深いと言わなければなりません では道元禅師はどうして止観を捨て只管しかん打坐たざを説いたのでしょうか それは坐禅を止し身体がじっとしている姿と観かん心が覚めて真理を見極めること思量することに分解して実践しようと思っても実践できないからです 現に天台の学僧たちは止を次元の低いものと見なし観ばかりを強調してきましたからその観法は空洞化してしまいやがて本物の坐禅は伝わらなくなりました 今の南方仏教でも坐禅の実践方法としてサマタ止とヴィパッサナー観の二つがありますが同時に行うのではなく10日間の接心でサマタだけを修行する人もいれば専らヴィパッサナーに従事している人もいます こうした偏った修行が釈尊の菩提樹下の坐禅と関係がないのはいうまでもありません
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