[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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270: 2021/03/06(土)00:19 ID:0ZlUbHsD(1/4) AAS
聞く準備ができてない者に何を話しても無駄だわな
縁なき衆生は度し難し
273: 2021/03/06(土)01:54 ID:0ZlUbHsD(2/4) AAS
大乗の影響は知らないですがそもそも念仏とは仏陀の執着の無さや徳性に対して自分もそうであろうと念じることみたいな話は聞いたことあります
それが大乗においては真言や観想などになるのでしょうけどテラワダにとっては仏陀のように無執着無分別であろうというひとつの実践の形なんじゃないでしょうか
真言や観想の瞑想は基本的に何らかの状態への集中瞑想ですが、状態に捉われず無執着であろうとすることは観察瞑想になるのでその点は違うと思います
274: 2021/03/06(土)02:07 ID:0ZlUbHsD(3/4) AAS
悟りは預流果から阿羅漢まで幅が広いので預流果で起こる有身見が断たれた段階の話をするなら
涅槃は一過性のものではもちろんないですがそれは永遠でもなく体験でもないですね
何故なら体験はどんなものであれ現われたものであり消えるもので無常だからです
そういう意味では永続的なものとも説明できますが一過性と永続というものを相対的に捉えてる上での永続的なものとはまた違います
誰かが永続的と考えるときそれは一過性のものに対して考えるわけですがそのように何かに対してどうであるという相対的なものではありません
本当に相対的でない永続したものとして明らかになると永続ですらありません
それを何だと言うことはできないのです
そして憶えることもできず明らかになっています
憶える忘れるということではないからです
実際はわかってないという状態が現われているだけで誰しも今すでにわかっていることです
省4
275: 2021/03/06(土)02:23 ID:0ZlUbHsD(4/4) AAS
悟り(涅槃)に関しては説明する者によってそれなりに説明の仕方が変わると思います
なぜかというと説明する内容も説明する主体もいない状態を説明するのに自分という視点を仮定して説明するのでそれ次第になるわけです
またそのせいでもあると思いますが預流果より先の段階に関してはテラワダの派によって意見の違いなどもあります
ジョーティカ師の本も読まれているようですがそれぞれの師や本や経典の説明を比べて参考にされるのがよいかと思います
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