古本屋のつぶやき2 (398レス)
古本屋のつぶやき2 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
371: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [] 2024/10/11(金) 08:55:57.72 ID:AnfRjoyY >だから、香厳も小石が箒の竹に当たって悟った、んじゃないんです。。 >その音で、無自覚、から我に返った、迷いに帰って、言語化できた、ということなんです。。w これ、逆ね。 例えば坐禅をしてて足が痛くなったり妄想したりしていて、隣単の方が警策をパンパンパンパンってやられた瞬間、痛みとか思考とか真っ新になる事がある訳です。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/371
372: 神も仏も名無しさん [] 2024/10/11(金) 11:06:04.76 ID:sznTjh1n セイウンコーン〜 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/372
373: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [] 2024/10/12(土) 00:13:42.10 ID:mkSrCmIw たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。 それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。 それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。 だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう? もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。 もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。 しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。 これはおかしな話である。ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。 したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。 (入門 哲学としての仏教 竹村牧男) 続く http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/373
374: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [] 2024/10/12(土) 17:06:52.77 ID:KY3gqnHE また、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を読んでこられた方には、「諸法実相十如是」はどうなっているの? と疑問を持たれるかもしれない。 サンスクリット原典では十如是に相当する箇所は、「それらの諸々の法は、①何であり、②どのようにあり、③どのようなものであり、④どのような特徴を持ち、⑤どのような固有の性質を持つのか」という五つの疑問節になっている。 (『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』 植木雅俊より) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/374
375: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/14(月) 23:27:32.89 ID:sjF4Fa+q ここに見る問題は、実はわれわれがこれまでの講義で何度も見てきた、因中有果論と因中無果論の間の解決困難な難問にあたるものである。 つまり、「人が仏になる」のは、原因である人にすでに結果としての仏性があるからだと考える立場と、「人が仏になる」にしても、それは原因である「人」に仏性があるからではなく、仏性が「人」に新しくそなわる瞬間があるからだという立場との対立である。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/375
376: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/22(火) 03:59:43.02 ID:7BwWrjvK スッタニパータ第4章 950(第十五経第16偈) 名称と形体において、わがものと執着することがまったくない人、そして、存在しないことによって悲しむことのない人、実に、かれは、世間において失うことはありません。Sabbasonāmarūpasmiṃyassan’atthimamāyitaṃ,asatācanasocati,savelokenajiyyati. http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/376
377: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/22(火) 04:05:18.80 ID:7BwWrjvK スッタニパータ第4章 950(第十五経第16偈) 名称と形体において、わがものと執着することがまったくない人、そして、存在しないことによって悲しむことのない人、実に、かれは、世間において失うことはありません。 Sabbaso nāmarūpasmiṃ yassa n’ atthi mamāyitaṃ,asatā ca na socati, save lokena jiyyati. http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/377
378: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/22(火) 04:10:47.57 ID:7BwWrjvK 1. Sabbaso すべてにおいて、 一切において 2. nāmarūpasmiṃ 名色、 形あるものと名前や概念 3. yassa その者の 4. n’ atthi 存在しない 5. mamāyitaṃ 所有の執着、 所有欲 6. asatā 存在しないものに 7. ca そして 8. na 〜しない 9. socati 嘆く、 悲しむ 10. save まさにその者こそ 11. lokena 世界によって、 世間によって 12. jiyyati 消耗される、 衰える http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/378
379: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/22(火) 04:21:18.43 ID:7BwWrjvK (第十五経第19偈) 不動であって明智のある者には、いかなる作為も存在しません。 かれは、勤め励むことから離れていて、あらゆるところに安穏を見るのです。 Anejassa vijānato n’ atthi kācini saṃkhiti, virato so viyārambhā khemaṃ passat isabbadhi. (石飛先生の解説) 「明智のある者(ヴィジャーナント)」とは、「了知する(ヴィジャーナーティ)」の現在分詞ですが、このことばと、次にくるサンキティまたはニサンキティ(作為)から、彼岸に渡った明智のある者が、もはや為すことがなくなった様子を表すと考えられます。 十二支縁起の最初の支分である「無明(アヴィッジャー)」と、次の支分である「行(サンカーラ)」との関係を思い出した人もいることでしょう。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/379
380: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/22(火) 04:25:14.46 ID:7BwWrjvK Anejassa vijānato 「揺るがない者(静かな者)、理解する者にとって」 n’ atthi kācini saṃkhiti 「どのような拘束も存在しない」 virato so viyārambhā 「その者は活動(行動)をやめた」 khemaṃ passat isabbadhi 「安全を見た者、その者は至福(解脱)を見た」 各単語の訳 1. Anejassa 揺るがない者、 静かな者、 動じない者 2. vijānatō 理解する者、 知る者 3. n’ atthi 存在しない 4. kācini 何らかの、 どんな 5. saṃkhiti 拘束、 制限 6. virato やめた、止めた 7. so その者 8. viyārambhā 活動、行動 9. khemaṃ 安全、 安寧、 無事 10. passat 見る、 理解する 11. isabbadhi 至福、 解脱、 完全なる安定 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/380
381: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/27(日) 04:55:39.13 ID:umnBabH9 ye ca te dharmā yathā ca te dharmā yādṛśāś ca te dharmā yal-lakṣaṇāś ca te dharmā yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ ye ca yathā ca yādṛśāś ca yal-lakṣaṇāś ca yat-svabhāvāś ca te dharmā iti teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo 'parokṣaḥ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/381
382: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/27(日) 07:54:32.89 ID:zCZW8Jkg tathagataeva Sariputra tathagatasya dharmam desayed yan dharmams tathagato janati sarvadharmam api Sariputra tathâgata eva desayati sarvadharmam api tathā-gata eva janäti ye ca te dharma yatha ca te dharma yadrsas ca te dharma yal laksanas ca te dharma yat svabhavas cate dharmäh yecayathã ca yadrsas ca yal laksanas ca yat svabhavas ca te dharmã iti/ tesu dharmesu tathagata eva pratyakso 'paroksah http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/382
383: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/27(日) 14:50:04.23 ID:u0PESyxH 和訳: 「シャーリプトラよ、如来のみが法を説くことができる。 如来が知る法は、すべての法であり、シャーリプトラよ、如来のみが法を説き、如来のみがすべての法を知っている。 どのような法であれ、その法がどのようであれ、その法がどのような特徴であれ、その法がどのような本性であれ、どのようであり、どのような特徴であり、どのような本性であろうとも、それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。」 一行毎の訳: tathāgata eva, Śāriputra, 「如来こそが、シャーリプトラよ、」 tathāgatasya dharmāṁ deśayet. 「如来は法を説くことができる。」 yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti, 「如来が知っている法は、」 sarvadharmān api, Śāriputra, 「すべての法であり、シャーリプトラよ、」 tathāgata eva deśayati, 「如来のみが法を説く、」 sarvadharmān api tathāgata eva jānāti. 「如来のみがすべての法を知っている。」 ye ca te dharmāḥ, 「どのような法であれ、」 yathā ca te dharmā, 「その法がどのようであれ、」 yadṛśāś ca te dharmā, 「その法がどのようであろうとも、」 yal lakṣaṇāś ca te dharmā, 「その法がどのような特徴であろうとも、」 yat svabhāvāś ca te dharmāḥ, 「その法がどのような本性であろうとも、」 ye ca yathā, 「どのようであり、」 ca yadṛśāś, 「どのようであろうとも、」 ca yal lakṣaṇāś, 「どのような特徴であろうとも、」 ca yat svabhāvāś, 「どのような本性であろうとも、」 ca te dharmā iti, 「それらの法が何であろうとも、」 teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ. 「それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。」 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/383
384: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/27(日) 22:25:27.84 ID:zCZW8Jkg tathāgata eva, Śāriputra, tathāgatasya dharmāṁ deśayet. yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti, sarvadharmān api, Śāriputra, tathāgata eva deśayati, sarvadharmān api tathāgata eva jānāti. http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/384
385: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/27(日) 22:25:51.81 ID:zCZW8Jkg ye ca te dharmāḥ, yathā ca te dharmā, yadṛśāś ca te dharmā, yal lakṣaṇāś ca te dharmā, yat svabhāvāś ca te dharmāḥ, http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/385
386: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/27(日) 22:26:10.99 ID:zCZW8Jkg ye ca yathā, ca yadṛśāś, ca yal lakṣaṇāś, ca yat svabhāvāś, ca te dharmā iti, teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ. http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/386
387: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/10/27(日) 22:26:42.68 ID:zCZW8Jkg 和訳: 「シャーリプトラよ、如来のみが法を説くことができる。 如来が知る法は、すべての法であり、シャーリプトラよ、如来のみが法を説き、如来のみがすべての法を知っている。 どのような法であれ、その法がどのようであれ、その法がどのような特徴であれ、その法がどのような本性であれ、どのようであり、どのような特徴であり、どのような本性であろうとも、それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。」 一行毎の訳: tathāgata eva, Śāriputra, 「如来こそが、シャーリプトラよ、」 tathāgatasya dharmāṁ deśayet. 「如来は法を説くことができる。」 yāṁ dharmāṁs tathāgato jānāti, 「如来が知っている法は、」 sarvadharmān api, Śāriputra, 「すべての法であり、シャーリプトラよ、」 tathāgata eva deśayati, 「如来のみが法を説く、」 sarvadharmān api tathāgata eva jānāti. 「如来のみがすべての法を知っている。」 ye ca te dharmāḥ, 「どのような法であれ、」 yathā ca te dharmā, 「その法がどのようであれ、」 yadṛśāś ca te dharmā, 「その法がどのようであろうとも、」 yal lakṣaṇāś ca te dharmā, 「その法がどのような特徴であろうとも、」 yat svabhāvāś ca te dharmāḥ, 「その法がどのような本性であろうとも、」 ye ca yathā, 「どのようであり、」 ca yadṛśāś, 「どのようであろうとも、」 ca yal lakṣaṇāś, 「どのような特徴であろうとも、」 ca yat svabhāvāś, 「どのような本性であろうとも、」 ca te dharmā iti, 「それらの法が何であろうとも、」 teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo ’parokṣaḥ. 「それらの法において、如来のみが直接的に、完全に知っている。」 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/387
388: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/11/05(火) 10:29:32.48 ID:dIWZyw64 保守点検あげ。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/388
389: 神も仏も名無しさん [] 2024/11/06(水) 15:24:00.22 ID:H1h6kX4Y ‘ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/389
390: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm [sage] 2024/11/07(木) 11:48:34.08 ID:UEUDm9Sw 道元禅師における「説心説性」の定義について 石 井 清 純 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/65/2/65_681/_pdf/-char/en http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1710544842/390
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 8 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.007s