[過去ログ] 【東京新函館】北海道新幹線210【2016年春開業】 (560レス)
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245: 2014/05/18(日)22:22 ID:EkWFpEVU0(19/31) AAS
池田大作名誉会長の行動の軌跡

昭和20年(1945年)8月15日、終戦。池田大作名誉会長は当時、17歳の青年であった。
戦地に応召されていた兄たちが相次いで復員してくるなか、敬愛する長兄・喜一の消息は途絶えたままだった。
終戦から2年が経とうとしていた昭和22年(1947年)5月。役所から突然届いた一通の書状。長兄の戦死公報だった。
長兄の死を知った池田青年は、一枚の鏡を握りしめた。
母の嫁入り道具の鏡台の鏡が、なにかの拍子に割れたとき、居合わせた長兄と池田少年は二人して適当な大きさの破片を拾った。
喜一は、その鏡の一片を戦地に携えていった。池田青年は、雨のように降る空襲の焼夷弾の炎を、もう一片の鏡を胸にかいくぐった。
戦死公報を受け取った母の背中は、小刻みに震えていた。罪のない母親をこれほど悲しませる戦争に、怒りが込み上げた。
池田名誉会長の平和への思いと行動は、若き日の戦争体験を抜きに語ることはできない。
戸田第二代会長に出会い、10年を経た昭和32年(1957年)9月8日。池田大作名誉会長(当時青年室長)は、戸田会長とともに、創価学会青年部による横浜・三ツ沢競技場での体育大会に出席していた。
省5
246: 2014/05/18(日)22:24 ID:EkWFpEVU0(20/31) AAS
原水爆禁止宣言からちょうど11年目の昭和43年(1968年)9月8日。池田大作名誉会長(当時会長)は、中国との国交正常化の早期実現を訴える「日中提言」を行なった。
提言は、日中の未来を憂慮していた心ある人々の間に大きな反響を広げる。国交正常化は、昭和47年(1972年)の日中共同声明によって実現をみた。
昭和49年(1974年)9月、池田名誉会長はソビエト連邦(当時)を初訪問。冷戦のさなかの訪問を決意させたのは、中ソ間の緊張による戦争への懸念だった。
「宗教否定の国に、どうして宗教家が行くのだ」という批判に池田名誉会長は「そこに人間がいるからです」と答えた。
ソ連・コスイギン首相との会見に臨んだ池田名誉会長は、単刀直入に聞いた。「ソ連は中国を攻めるつもりはあるのですか」
一民間人からの思いもかけぬ言葉に、コスイギン首相も率直に答えた。「中国を攻めるつもりも、孤立化させるつもりもありません」
同年12月、コスイギン首相の言葉を携え、池田名誉会長は訪中。この時、重い病の床にあった首相・周恩来が池田名誉会長との会見を強く希望した。
周総理は、日中友好と世界の平和を池田会長に託す。「あなたが若いからこそ、大事につきあいたいのです」
国家や思想の違いを超え、平和へのバトンが手渡されたのである。
247: 2014/05/18(日)22:26 ID:EkWFpEVU0(21/31) AAS
昭和46年(1971年)の本部総会で池田大作名誉会長(当時会長)は、「生存の権利に目覚めた民衆の運動が、今ほど必要なときはない」と、平和への行動を呼びかけた。
これを受け、青年部は昭和48年(1973年)から「核廃絶1000万署名運動」を開始。
庶民の平和への切なる願いは、昭和50年(1975年)に池田会長の手で国連事務総長に届けられた。
昭和57年(1982年)から創価学会と国連広報局の協力で開催された「核の脅威展」は、世界24か国を巡回し、のべ200万人以上が観た。
核戦争の恐怖と平和の尊さを訴える展示は、東西冷戦下での核廃絶と緊張緩和への国際世論の形成に大きな影響を与えた。
冷戦終結後の平成9年(1997年)には核兵器全廃条約の締結を求める署名運動「アボリション2000」に協力。
3か月間で1300万人の署名を集めた。
このほか、国連を通じた難民救済活動への支援や、100巻に及ぶ戦争体験集をはじめとする反戦メディアの出版など——。
第三代会長就任以来、池田名誉会長が切り開いた平和行動の足跡は、創価学会の幅広い平和運動の大河として広がっている。
248: ザマーが進化したか? [頑張ったから遊んでやる] 2014/05/18(日)22:55 ID:FL4o0Lb2O携(1/5) AAS
新駅から七飯方向への道路整備も必要だな。
新駅北口から峠下への道路整備がされているがさほど必要無いような気がする。
249: 2014/05/18(日)23:03 ID:EkWFpEVU0(22/31) AAS
「50年前、桜の咲く頃に私は日本を発ちました」——19歳で留学した日本の思い出を、周恩来総理は懐かしそうに振り返った。
「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」と語る池田大作名誉会長に周総理は言った。
「願望はありますが、無理でしょう」——周総理は癌におかされ、闘病中の身であったのだ。
1974年12月5日の夜。総理からの会見の要望は、2度目の訪中で北京に滞在していた池田名誉会長に、突然伝えられた。
総理の病状を心配した池田名誉会長は、会見を固辞。しかし、総理の「強い希望」であるとの説得に促され、会見場となった入院先の三〇五病院に向かった。
総理は玄関で立って待っていた。「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」
1960年代初めから、「創価学会は、民衆のなかから立ち上がった団体である」ということに着目していた周総理。1968年に池田名誉会長が発表した「日中国交正常化提言」も高く評価していた。
「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」——周総理は、日中の友好、アジアの平和、さらには世界の平和と安定について、万感を込めて語る。
「中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であることを何度も提唱されている。そのことが私にはとてもうれしいのです」「あなたが若いからこそ大事につきあいたいのです」
この時、周総理76歳、池田名誉会長は46歳だった。
省6
250: 2014/05/18(日)23:07 ID:EkWFpEVU0(23/31) AAS
イギリスが最も輝く季節、メイフラワー・タイム(5月の花咲く頃)。
1972年5月、池田大作名誉会長は、ロンドン市内にあるアーノルド・J・トインビー博士の自宅を訪れていた。
1969年の秋、池田名誉会長のもとに一通のエアメールが届いた。
それは「20世紀最大の歴史家」とも評されるトインビー博士からの、「対談」を要請する書簡であった。
「現在、人類が直面している諸問題に関して、二人で有意義に意見交換できれば幸いです」。
そして「うららかな春を迎える5月」に、ロンドンで語り合いたいとつづられていた。
招請から2年半、ついに対談が実現した。
「私はこれまで、仏法者として、『生命の尊厳とは何か』『人間とは何か』といった根源的なものを、常に探究してまいりました」
と語る池田名誉会長にトインビー博士は応じた。「まさに、私もその点を話したかったのです。長い間、この機会を待っていました。
やりましょう! 21世紀のために語り継ぎましょう! 私はベストを尽くします!」
省9
251: 2014/05/18(日)23:08 ID:EkWFpEVU0(24/31) AAS
その解決の方途を真剣に探ろうという責任感と情熱である。
トインビー博士が対談を始める際、青年のごとく語る言葉があった。
「さあ、今日も、共に語りましょう! 人類のために! 未来のために!」
252: 2014/05/18(日)23:12 ID:EkWFpEVU0(25/31) AAS
「きょうは、大統領とケンカをしに来ました! 火花を散らしながら率直に話し合いましょう。人類のため、日ソのために!」(池田大作名誉会長)1990年7月、ソ連政治の中枢・クレムリン。
ゴルバチョフ氏と池田名誉会長との初の出会いは、通訳が一瞬戸惑うほどの率直な会話からはじまった。「私も率直な話し合いが好きです」ゴルバチョフ氏も輝くような笑顔で応えた。
ソ連の最高指導者として、ペレストロイカ(再建・改革)を掲げ、内政改革を推進。外交では「新思考」で核軍縮の流れをつくり、東西冷戦を終結させた人物である。
初会見の際、池田名誉会長に明言した通り、1991年の春にソ連大統領として初来日したゴルバチョフ氏。ハードスケジュールが続くゴルバチョフ氏を池田名誉会長は気づかい言った。
「きょうはせめて、変わらぬ友情の心を伝えたいと思って来ました」「優先すべきは全人類の利益です。
ゆえに私は人類的視野で働く人を大切にします」その年の12月、世界情勢の激動のなかでソ連は解体。大統領を退いたゴルバチョフ氏に池田名誉会長は渾身の励ましを書き送った。
「これからです。これからあなたの本当の人生が始まります」——と。
ゴルバチョフ氏と池田名誉会長の語らいのなかには“人類の未来について、胸襟を開いて語り合える数少ない人物”としての信頼感にあふれている。
「あなた(池田名誉会長)はご自身の平和旅によって、鉄のカーテンのもとでも、平和や対話や民間外交が可能であることを証明しました」(ゴルバチョフ氏)
歴史の激動のなかで、時には非難の嵐のなかを生き抜いてきたゴルバチョフ氏は、語る。
省2
253: ザマーはバカ〜に [昇格] 2014/05/18(日)23:12 ID:FL4o0Lb2O携(2/5) AAS
都市間長距離バス上りを新駅経由もやっていいかなんて思った。
何れにせよ現函館駅から新駅へと交通網の一大JCTが移ることになることには変わりはない。
254: 2014/05/18(日)23:16 ID:EkWFpEVU0(26/31) AAS
長身の紳士が、血色の良いピンク色のほおをほころばせながら会見場に現れた。
20世紀最大の科学者の一人、ライナス・ポーリング博士である。
ビタミンCの研究で有名なポーリング博士は、「現代化学の父」とよばれる。1954年にノーベル化学賞を受賞。
さらに、夫人とともに核兵器廃絶への取り組みを続け、1962年にはノーベル平和賞も受賞した。
異なる分野での2つのノーベル賞を個人として受賞したのは、ポーリング博士が初めてである。
ポーリング博士が池田大作名誉会長のことを知ったのは80年代前半のこと。ともに平和へと行動してきた夫人に先立たれ、孤軍奮闘していたときのことだ。
あるジャーナリストに紹介されて手にとった名誉会長の著作や平和提言。その内容に博士は驚嘆する。
長年、核兵器について思索するなかで博士は「核兵器の一番の問題は、人間の生命に潜む狂気である」との認識を深めていた。
その生命の問題をあつかう宗教者である池田名誉会長が、これほど広範に、反核・反戦運動に取り組んでいるとは——そこにポーリング博士は目をみはった。
初の会見(1987年2月)は、ポーリング博士の強い希望によって実現し、その後、4度の語らいを重ねることとなった。
省8
255: 2014/05/18(日)23:21 ID:EkWFpEVU0(27/31) AAS
「訪米の際には、立ち寄ってほしい」——池田大作名誉会長との会見を希望したのはヘンリー・A・キッシンジャー氏。当時、国際政治の“要”のアメリカ合衆国国務長官であった。
“外交の魔術師”との異名を持つキッシンジャー氏。「ヒマラヤ越えの北京入り」と報じられた電撃訪中(1971年)は、世界を「米ソの二極構造」から、
「米中ソの三極構造」に劇的に転換した。
名誉会長も、74年に中ソ両国の首脳と会見。“民間外交”を推し進めていた。
翌75年1月——。初めての会見は、小雪がちらつくアメリカの首都ワシントンで行われた。
核保有国間の緊張、ベトナム戦争……外交課題が山積するなかで、キッシンジャー氏は早くから池田名誉会長の民間外交に注目。
会見の数年前から書簡で意見交換を始めていた。
会見に先立って、池田名誉会長によるベトナム和平についての提言が氏の手元に届いていた。
初会見の席上、「池田会長の平和行動は、よく知っています」と語り、世界情勢について池田名誉会長の見解を求めたキッシンジャー氏。
池田名誉会長のベトナム戦争終結への提言についても、「3回、読みました。数日間思索します。中東問題も意見を送ってほしい」と。
省11
256: 2014/05/18(日)23:24 ID:EkWFpEVU0(28/31) AAS
「余りにも興味深い対話ですので、もう少し続けさせてください」
1992年11月、チリ共和国の国家元首として初めて来日し、池田大作名誉会長と会見したエイルウィン大統領。多忙なスケジュールを気づかい、
辞去しようとする池田名誉会長を大統領が引きとめたのは「民衆に奉仕するリーダー像」に話がおよんだ時であった。
かねてより「私は、チリとチリ人に対して『一番、奉仕する人』になりたい」と語るエイルウィン大統領。
池田名誉会長は、チリが「一番、大変な時」に立ちあがったエイルウィン大統領の勇気を「『人間として』偉大」と讃えた。
エイルウィン大統領のトレードマークは、絶えることのない笑顔。チリのある新聞は「彼の外見的な特徴といえば、
厳しい現実の試練も消し去れなかった微笑であろう」と記した。「厳しい現実の試練」——それは、独裁政権を倒し、
民政移行を実現した不屈の闘争であった。チリの民衆は、「紙と鉛筆」(投票)、「歌」(音楽と詩)と「握手」(立場を超えた民主勢力の連帯)で勝利したのだった。
「決して、これが最初で最後の出会いにならないことを望みます。
この次は、ぜひ我が国で、大統領府でお会いしたい」とのエイルウィン大統領の願いは、翌93年2月、池田名誉会長がチリを初訪問した折に実現した。
省9
257
(1): 異常賢師ザマーは [の眼力!] 2014/05/18(日)23:28 ID:FL4o0Lb2O携(3/5) AAS
330033399992*33884442222*00033493311**222200322233444475
3*7ー335555 55222493311 222229999933411
258: 2014/05/18(日)23:29 ID:FL4o0Lb2O携(4/5) AAS
多分、これはスルーしないな
259: 2014/05/18(日)23:30 ID:EkWFpEVU0(29/31) AAS
1972年、あるレポートが世界に衝撃を与えた。タイトルは『成長の限界』。発表したのは、国際的有識者組織「ローマクラブ」。
創設者はイタリアを代表する実業家として知られたアウレリオ・ペッチェイ氏である。
経済至上主義の物質文明に警鐘を鳴らす活動のなかで、ペッチェイ氏は二つの“壁”に直面した。一つは、ソ連・中国とどう協力すればいいか。
もう一つは、若者の価値観をどう転換させるか——。
「イデオロギー」と「世代」。二つの壁に突き当たっていたのである。そうしたなか、池田大作名誉会長を知った。
社会主義の中国・ソ連を相次いで訪問し、対話を重ねている。
また池田名誉会長のもとには、いつも溌剌とした青年がいる。池田名誉会長にはローマクラブの限界を破る何かがある——。
そう感じたペッチェイ氏は、池田名誉会長との会見を希望する。
「庭がきれいですから、外でお話ししませんか」(池田名誉会長)
「それはいいですね!」(ペッチェイ氏)
省9
260: 2014/05/18(日)23:33 ID:EkWFpEVU0(30/31) AAS
「私は以前から池田会長の著作を読み、お目にかかるのを楽しみにしていました。きょう、こうして語っておりますと、ずっと前からの知り合いだったように思えてなりません」(エスキベル博士)
1995年12月、エスキベル博士と池田大作名誉会長は初会見。軍事政権が支配していた中南米で、過酷な迫害に耐えて人権闘争を貫いたエスキベル博士。
戦前、日本の軍国主義の宗教弾圧に立ち向かった牧口初代会長、戸田第二代会長の人権闘争を原点に行動を続けてきた池田名誉会長。「人権」をテーマにした語らいには、魂の共鳴があった。
池田名誉会長は語った。「語り合いましょう! 後世のために! 青年のために! 次の千年のために!」
1974年、エスキベル博士はアルゼンチンにて人権団体「平和と正義」を結成し、非暴力による闘争を掲げ、人権擁護運動を本格的に開始した。
77年には、軍事政権により、博士は逮捕・投獄。14カ月にも及んだ獄中生活で、博士は電気ショックなどの激しい拷問に耐え抜き出獄した。80年にはノーベル平和賞を受賞。
95年の会見の際、エスキベル博士は池田名誉会長に語った。「牢の中では、体の自由はききません。しかし、心は自由なのです。心は縛られないのです」と。
エスキベル博士と池田名誉会長の語らいは、対談集『人権の世紀へのメッセージ』(2009年)として結実。対談集には「平和の世紀」と「人権の世紀」を開くため、未来を担う青年への期待があふれている。
「『暴力の文化』を、自己の内面から追放しなければなりません。そうしてこそ、はじめて『平和の文化』を構築できるのです」(エスキベル博士)。
「一人の人間における精神の再生と変革こそが、暴力から平和への転換点です」(池田名誉会長)
261: 2014/05/18(日)23:38 ID:EkWFpEVU0(31/31) AAS
「カリブ!(ようこそいらっしゃいました)」池田大作名誉会長は、緑の大地の母、微笑みの勝利の母であるマータイ博士を、スワヒリ語で歓迎した。
池田名誉会長の力強い歓迎の言葉に、マータイ博士は世界を魅了する“マータイ・スマイル”でこたえた。
博士が創設した「グリーンベルト運動」が評価され、2004年にアフリカの女性として、また環境分野で初のノーベル平和賞を受賞した。
森林破壊による砂漠化に苦しんでいたケニアの農村の女性たち。
マータイ博士は、みずから7本の苗木を植えることから始め、「国民一人が一本の苗木を植えよう」と、女性たちの間に“対話の渦”を巻き起こす。
そして、30年をかけて3000万本の植林に成功したのだ。
池田名誉会長は、“母の、母による、母のための”運動を心から称えた。
池田名誉会長はマータイ博士に、“輝く笑顔の秘けつ”をたずねた。
「“生きていること自体が素晴らしい体験”なのだから、楽しんでいかなければ!」
と信念を語るマータイ博士に、池田名誉会長も心から賛同した。
省9
262: 必死に考えるザマー(笑) [これくらい分からないと精神疾患者確定w] 2014/05/18(日)23:41 ID:FL4o0Lb2O携(5/5) AAS
体験試乗会や新駅・木古内駅の見学会で次第に機運も盛り上がると思う。
ただ、開業暫くは青函トンネル内は速度抑制を強いられるから運賃も少しは考慮が必要だ。
263: 2014/05/19(月)00:10 ID:Gs9K2aYX0(1/29) AAS
「お元気そうで、うれしい。本当にうれしい」「その笑顔を皆に見せてあげてください。インドの人も、世界の人も、どんなにか喜ぶでしょう」。
1992年2月、ソニア・ガンジー氏の自宅を訪問した池田大作名誉会長は語った。
その9カ月前、ソニア氏は、最愛の夫ラジブ・ガンジー首相(当時)の暗殺という悲痛な出来事を経験していた。
かつてラジブ氏とも会見し、友情を結んだ池田名誉会長。——祖国のため、民衆のために生命を捧げたラジブ氏の一家が不幸になることがあってはならない。
断じて幸福になってもらいたい——その真情を、率直にソニア氏に語った。
「一番、悲しかった人が、一番、晴れやかに輝く人です。運命を価値に転換してください。ソニア夫人が悲しめば、ご主人も悲しまれるでしょう。
夫人が笑顔で立ち上がれば、ご主人も喜ばれるでしょう。夫人とご一家の勝利が、ご主人の勝利となるでしょう」
イタリア出身のソニア氏は、ケンブリッジ大学在学中にラジブ氏と出会い、21歳で結婚。インドに渡り、文化と生活の隔たりを乗り越え、政界入りした夫を懸命に支えた。
1992年の語らいの席で、池田名誉会長は、自らが作詞した「母」の曲のオルゴールをソニア女史に贈った。「母は太陽です。
太陽は輝いてこそ太陽です」「振り返らないことは、とても難しいことです。
省6
264: 2014/05/19(月)00:13 ID:Gs9K2aYX0(2/29) AAS
20世紀最高峰のバイオリニストと称されるメニューイン氏。1924年、8歳でプロデビューし、18歳の時には、72都市で110回のコンサートを行った。
10代にして、その世界的名声は不動となる。
氏が11歳の時、その妙技に心打たれた物理学者アルベルト・アインシュタインは、感動のあまり舞台に駆け寄り、メニューイン少年を抱き締めて、こう語ったという。
「きょう、君は証明してくれた。天上に神が存在することを」と——。
第二次大戦後、メニューイン氏は高齢者や生活に困窮する人々のために慈善演奏活動を展開。また、音楽祭の開催や「ユーディー・メニューイン・スクール」の設立など、後進の育成にも従事した。
氏は、1951年に初来日。公演では、戦争で荒廃していた聴衆の心に、勇気と希望をおくった。文芸評論家の小林秀雄氏は、その感動をこう記している。
「私はふるえたり涙が出たりした」「あゝ、何という音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」(1951年9月19日付朝日新聞)
メニューイン氏は綴った。「音楽はどんなにたいへんな時代でも、なんとか私たちを力づけようと、繰り返し繰り返し励ましの言葉をかけてくれる。
深い根底から発した音楽であればなおさらである」(別宮貞徳監訳『人間と音楽』日本放送出版協会刊)
1992年4月、メニューイン氏と池田大作名誉会長は会見。「出会いを待ちこがれていました。今日という日の喜びは、ひとしおです」。
省6
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