◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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265: 2011/03/08(火)10:35 ID:u5UNyE6e(4/8) AAS
一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が
貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に
対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、
最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその
政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの
陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の
闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
266: 2011/03/08(火)19:45 ID:u5UNyE6e(5/8) AAS
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児の
やうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと
思つてゐる。安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。
省1
267: 2011/03/08(火)19:48 ID:u5UNyE6e(6/8) AAS
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。精神といふと、またいつもの精神主義かと
いはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で
行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは大勲位の
勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
268: 2011/03/08(火)19:50 ID:u5UNyE6e(7/8) AAS
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに見て
わらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のことなど
考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。さういふ
基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのではないかと
疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、自分一人しかゐない、
自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
269: 2011/03/08(火)19:52 ID:u5UNyE6e(8/8) AAS
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。左翼の大衆運動といふものは、大衆を動かさ
なければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが
基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところが
われわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、
初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、さういつた
絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。かりにも世間を
甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにもならないところまで
来てゐることを自覚して欲しい。

三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より
270: 2011/03/09(水)11:41 ID:IiXacfSS(1/6) AAS
Q――石原(慎太郎)氏に向かつて「自民党にはひつたら党を批判するな」といふあなたの論法。これを
おし進めると、抵抗を否定することになる。従属といふか、非常に暗いものを要求する、抵抗を押へるのでは
ないか、と思ふのだが……。
三島:抵抗は死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。たとへば抵抗は楽しいもの
であるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。ベ平連式の“抵抗”は、大衆にアピールする。
抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないでフランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスをやることだ、これが
非常にいやなんです。抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきやできないのが本当である。
内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。共産党を内部批判すると
英雄になる。公明党を内部批判すると英雄になる。自分の属してゐるものの内部批判した男が英雄視される。
こんな間違つたことはない。抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。
省1
271: 2011/03/09(水)12:00 ID:IiXacfSS(2/6) AAS
(中略)藩のきびしさは、いまの会社などとは、なるほど、くらべものにならないかもしれない。しかし、
そこに仕へるものの内面的なモラルといふものは同じだ。つまり、お前はこんな批判をしたから切腹ものだ、
首をはねる、なんて規則は外面的な規則でしよ。だけど自分は賊名を着せられてもあへてやるんだとか、あるひは
自分の中では内面的にそれを許さない、といふ場合に、人間はどういふ態度をとるべきか。その態度決定は文化や
伝統が規定すると思ふんです。(中略)
Q――「個人的なフラストレーションと公的な憤りを混同するな」といふことを書いてをられる。現代の抵抗には、
確かに、そんなのが多い。
三島:そろは抵抗側の政治組織の問題です。つまり個人的な怨恨を巻きこまなければ、大きな抵抗は組織できない。
さういふ組織がいけないといふのではない。(中略)
いまの日本は「公」と「私」の別がないやうな国、私益優先の国ですね。人命尊重以上の高い価値を持つたものは
省3
272: 2011/03/09(水)12:06 ID:IiXacfSS(3/6) AAS
韓国でも北朝鮮でも国家意志といふものがあつたでせう。いまの日本には、国家意志などといふものはない。
石原君なんか、国家意志を持たうとするために政治家になつたのぢやないか。さういふ日本から脱却して――。
ぼくは、そのために彼を応援したのぢやないのか。だから石原君が私益優先みたいな社会の中で「私」と「公」を
混同するやうなものの考へ方だつたら、初めから矛盾ぢやないのか。あくまで公的なものだけを大切にするのが
彼の政治行為ではないのかと思ふのです。ぼくはむりやりにでも「公」と「私」を分けなきや政治行為なんて
できるものではないと思つてゐる。いまの若いもの、若い政治家が持つてゐる満たされないもやもやしたものを、
公的なものにすりかへてゐる。これは卑怯です。石原君だけでなく、日本人の多くが、いまさうですね。会社の
帰りに、いつぱい飲みながらやる上役の悪口が、いま日本中の世論といふものの原型になつちやつた。昔は、
あんなもの私的なもので、上役とのいさかひはその場で終はつた。翌日はケロッとしてゐたものだ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
273: 2011/03/09(水)12:09 ID:IiXacfSS(4/6) AAS
Q――士道とは何か。
三島:山鹿素行の士道とか、吉田松陰のそれとか、士道にもいろいろあつてね。さう堅いことばかりいつてゐる
わけぢやない。「柔よく剛を制するの理(ことわり)をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば、かへつて
よはきことあり。われつよければ、かれも又つよし」なんてのもある。こりや、ぼくのこといつてるのかも
わからんが……。
ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラル
といふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。ストイックなのは
損だと、だれもが考へてゐる。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
274: 2011/03/09(水)12:13 ID:IiXacfSS(5/6) AAS
Q――「士道」といふもの、そもそもアナクロニズムではないのか。みんなが「士道」を実践してゐないのに、
一人だけサムラヒになつても効果がないんぢやないか。
三島:ぼくは「士道」を、みんなに向かつて鼓舞するつもりはない。ストイックなものだから、一人がさうで
あればいい。あるひは十人がなるかもしれないが、この巨大な社会の歯車の中で、一人がストイックになれば、
それがしだいに波及して順々に歯車が動いていくんぢやないか。さういふ気違ひみたいなヤツがゐないと、
日本、面白くないと思ひますね。
アナクロ? さうかもしれない。しかし、人間、どんな新しい身なりをしてゐても、一つだけ古いものを
持つてるのがダンディーぢやないのですか。精神的態度として。士道ていふのはダンディズムですよ。男の
“見伊達”といふか、さういふものですね。精神的な伊達ものですね。最新流行の服を着て、口に何十年か前の
古いパイプをくはへてゐるやうに、精神的にも一点、アナクロニズムが残つてゐるてのがダンディーなんですよ。
省1
275: 2011/03/09(水)12:17 ID:IiXacfSS(6/6) AAS
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。
三島:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで一滴の
しづくのやうにその人の心にしたたつたら、自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。「士道」といふ
ものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。われわれの心の中を探つてみると、心のなかに
持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。やましいものがあれば、士道に反してゐるのだ
と考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。なぜやましさを感じるか。それは士道にもとつてるからなんです。
士道つてそんなものではないか。一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。

三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
276: 2011/03/10(木)11:57 ID:oaucq5SW(1/5) AAS
私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。
鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべき
ことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、
文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分の
省2
277: 2011/03/10(木)12:00 ID:oaucq5SW(2/5) AAS
この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかつた。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとつては、
排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど
愚かになれるわけではない。
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。
思想的節操を保つたたために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、
思想的に変節しないといふことは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明には
ならぬであらう。つきつめてみれば、「男の意地」といふことを多く出ないのである。それはそれでいいと内心
思つてはゐるけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。
省1
278: 2011/03/10(木)12:02 ID:oaucq5SW(3/5) AAS
否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を
果たすわけではないが、政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ
果たしてゐないといふ思ひに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、
といふ考へが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代
二十五年間を、否定しながらそこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷に
なつてゐる。
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的妄信を
根底から破壊してやらうと思つて来たのである。
省1
279: 2011/03/10(木)12:04 ID:oaucq5SW(4/5) AAS
肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強ひの
結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかつたことであり、
もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいへば、「死刑囚たり且つ
死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を
発見したときに、近代がはじまつたのではなからうか。私のこの「近代」といふ意味は、古代についても
妥当するのであり、万葉集でいへば大伴家持、ギリシア悲劇でいへばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を
代表してゐるのである。
私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失つた。原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚といふ徳が
欠けてをり、果ては上田秋成や平賀源内のやうになるのがオチであらう。

三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
280: 2011/03/10(木)12:07 ID:oaucq5SW(5/5) AAS
自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」といふ境地になれないものか、
われとわが心を疑つてゐる。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦つてゐるのが、一体、人生を
愛するといふことであるかどうか。
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけの
エネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのでは
ないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、
私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
省1
281: 2011/03/12(土)15:02 ID:ajd7BZpY(1/6) AAS
Q――現代のビジネスマンに要望することは?
三島:私はね、商人といふのはきらひなんですよ。ですからね、万国博にも行つてゐないですよ。あれは商人の
お祭だから、武士は行かないんだといつてぐわんばつてゐるんです。
とはいひながらね、デパートだつて商人だしね、武士といへども、商人とつきあはざるを得ない、つらいところ
ですよね(笑)。武士だけやつてゐると、お米も食へなくなつちやふ。
かういふ世の中だから商人様全盛の世の中でしよ。ですけど、ぼく本人の中にはやつぱり武士の魂はあると思つてね。
商人の中にも銭屋五兵衛みたいな男もゐますしね。明治の政商でも、政治とかんでゐて、そこでやつぱり自分の
意気地を投げ打つといふ気持があつたと思ふんですよ。商人がきらひといふ意味は、商人を尊敬しないわけぢやない。
ただ一般に、商人には自己犠牲の精神がないからきらひなんです。
日本人といふのは、自己犠牲の精神がなくなつたら日本人ぢやないですよ。今の商人といふのはさういふ気持が
省2
282: 2011/03/12(土)15:03 ID:ajd7BZpY(2/6) AAS
資本といふのは、本質的にインターナショナルなものですよ。どんな国の、いかにも民族資本でもね、
インターナショナルな性質をもつてゐるのが資本だと思ふんですよ。ところがそつちの面ばかりが出てくるとね、
日本人の魂が商人道によつてをかされてきてゐると思ふ。そのお金本位、金権主義にをかされてゐるのがこはい。
私は、青年が金権主義といふものに反抗する気持がいちばんよくわかる。自分らが企業体の中で活躍するとき、
いかに武士の魂をもつてても、結局、金権主義、ご都合主義、さういふものによつてをかされていくといふのは、
青年として耐へがたいだらうと思ふ。それでボクは武士は武士として一人でぐわんばつてゐる。ところがボクもね、
扶持をくれないから浪人なんですよ。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
283: 2011/03/12(土)15:05 ID:ajd7BZpY(3/6) AAS
やつぱり日本人は身を殺して仁をなすといふ気持がなければだめなんだけど、これがね元禄時代と同じでね、
今、税法がモラルを崩壊させてゐるでしよ。あのころの侍がみんな藩のお金を平気で使つて飲み食ひする、
何をする、さういふことをしない人もゐますがね、当時から日本人はさういふ悪いところがあるんですよね、
公私混同みたいなところが。
とくにね戦後は税法のおかげで会社の交際費が自由に使へるとね、社長にいたるまで家族つれてすし屋に行くとか。
戦前は少なくともポケットマネーがありましたからね、重役クラスになりますと、金の使ひ方が公私混同して
ゐなかつたですよね。これは自分のこづかひといふけぢめがあつたでしよ。今何でも会社の伝票を切る、
かういふことがいちばん日本人全体のモラルを崩壊させてゐると思ふんです。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
284: 2011/03/12(土)15:08 ID:ajd7BZpY(4/6) AAS
Q――先生の小説、たとへば「奔馬」なんかにも自己犠牲といふことが強く出されてゐますね。
三島:さうですね。「奔馬」は自己犠牲を非常に強く出してゐる。このごろ外人記者なんかに会ひますとね、
日本に軍国主義が復活してゐることを懸念してゐる。これは実はまちがひだつていふんです。(中略)
といふのは武士道といふのを、日本人がわからなくなつてゐるからだ。武士道といふのは何かといふことを
外人に説明するとき、三つあるといふんです。
それはSelf-respect 自尊心ですね。次はSelf-responsibility 自己責任ですね。自己において責任が終了するといふ。
第三がSelf-sacrifice 自己犠牲ですね。この三つのうちどれをとつても武士ぢやないといふんですよ。そしてね、
軍国主義といふのは外国からきたものでね、このSelf-respect と、Self-responsibility はあるかもしれない。
Self-sacrifice は欠けてゐると。

三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
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